単行本のための原稿を終えてからの綾部さんは、すっかり規則正しい生活になった。
朝もちゃんと起きてくるし、夜は早めに寝ているみたい。ごはんも三食いっしょに食べるようになって、なんだか不思議な感じすらした。相変わらず会話が多いわけではないけれど、たとえば何がすきで何がきらいかとか、綾部さんの無表情のなかにもすこしずつ表情が見えてきた。そんな気がする。


そんなある日のお昼すぎ、食満さんがやってきた。


「よう。なまえちゃん、ひさしぶり」
「食満さん!」


食満さんがあんまりに明るくわらうので、わたしもついはずんだ声で返事をしてしまう。

自分のお部屋から出てきた綾部さんとわたしとを見比べて、食満さんは言った。


「きょうはな、お前の原稿が着々と本になってるぞって報告と、それからこれ、」


すっと紙袋がさしだされる。


「ごほうび」





食満さんにはお座敷に上がってもらい、三人分のお茶を淹れる。食満さんが持ってきてくれた紙袋の中身は、なんと大きなたいやきだった。


「綾部は長い間がんばったからな。俺からの個人的な報酬」
「ありがとうございます」
「お前カスタードだろ?はい、こっち」


綾部さんにたいやきを渡しながら、食満さんはお茶を注いでいるわたしの方をむいた。


「なまえちゃんの分もあるぞ。カスタードと小豆、どっちがいい?」
「わたしまですみません。あ、どちらでも…」
「当たり前だろ。じゃぁ、イメージ的にこっちな」


手渡されたたいやきをひと口かじってみると、なかはあんこだった。わたし、小豆ってイメージなのかしら?


「綾部はまぁ、次の仕事までよく休んどけよ」
「言われなくてもそうします。立花先輩とは会ってるんですか?」
「おう、たまにな。最近忙しくってなかなか集まってねぇけど…」


二人のお話しを聞きながらたいやきを食べていたわたしと、食満さんの視線がぶつかった。


「なまえちゃんさぁ、いまずっとここん家にいるんだよな?」
「はい」
「昼間とかさ、何してんの?」
「えっと…」


隣にすわっていた綾部さんの方をふりかえると、綾部さんもじっとこちらを見つめてきた。
食満さんに向き直って、なお言い淀んでいると むこうが先に口をひらいた。


「もし時間あるなら、うちの会社にバイトしに来ねぇ?」
「え…」
「小さい会社なんだけど、今ちょっと事務の方の人手が足りてないんだよ。とりあえず短期からでも始めてみたりとかしないか?」


たしかに、最近時間にもゆとりができて、どうにか過ごせないものかしらと考えてもいたのだ。出版社だなんて、なんだかわたしにはもったいない立派なお誘いだけれど…
綾部さんの方をちらりと見る。やはり、彼はこちらをじっと見つめていた。

わたし、なんて答えたらいいのかな。

おもわず下をむいてしまうと、となりから静かな声がした。


「絵の具と血くらい、見分けられるようになってから考えたらいいとおもうよ」




さくり。
カッターナイフの薄い薄い刃のように、綾部さんの言葉はすんなりとわたしに突き刺さった。

硬直するわたしの後ろをとおり、綾部さんが居間を出て行かれる気配がした。食満さんがそれを呼びとめる声も聞こえたけれど、わたしはどうしてもからだが動かなかった。動かないはずなのに、条件反射のようにじわじわと視界がゆるむ。

ぽたぽたと、気づいたときには目や鼻が熱い感触でいっぱいになっていた。頬を涙がどんどんつたってゆく。


「なまえちゃん…」


綾部さん。やっぱり気にしていたんだ。そうだよね、見間違いであんなにうろたえて、ふれられるのも おもわず拒絶してしまって。嫌だっただろうし、面倒だなともおもわれたんだろう。無理もない。無理もないってわかっているけど、わかってるけど、


ぽろぽろ涙をこぼすしかないわたしの前で、食満さんが動いた気がした。次の瞬間には、視界は食満さんが着ていたシャツの色だけ。あたたかさに包まれて、ようやく食満さんに抱きしめられてるんだと気づいた。


「なまえちゃん」
「……すみませ、っ…」
「無理すんな。我慢もするな。泣いていいから」


あやすようにやさしく背中をたたかれて、さらに涙があふれてくるのがわかった。どうしよう。綾部さん、きっともうわたしに嫌気がさしてしまったんだ。わたしのせいで。どうしよう、どうしよう、

食満さんのシャツがぬれてしまうのに。気になったけれど、ひさしぶりに誰かの体温を感じて安心してしまったのかもしれない。しばらく涙はとまらなかった。



どのくらい経ったのか、食満さんは名刺を取り出し裏に何かを書いて、ようやく落ち着いてきたわたしにそっとにぎらせた。


「なまえちゃん。困ったことがあったり、つらいことがあったらすぐに電話しろよ」
「、でも…」
「前に来たときから、心配だったんだ。はたちそこそこで住みこみで働くなんて、どこにも行ける場所がなくなっちまいそうだったから」
「食満さん……」
「無理だとおもったらおもいだしてくれ。な?いつでも駆けつけるから」


食満さんの目はあまりにまっすぐで、表情はただただ真剣で、わたしは小さな声でありがとうと言うしかなかった。



101218
240407 一部修正



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