ほんとうに緊張で指ってふるえるんだな。変なところでわたしはいたって冷静だった。そう、でも反面でそれはそれはパニックを起こしていた。呼び鈴に乗せた自分の指先を眺めながら、うーん、もうなにがなんだかわからない。パニックついでに押してしまおう。


ぴんぽーん、


どのくらい時間が経ったかわからない。たぶんそのくらいパニックなのだ。だからがらりと開いた引き戸から男のひとが顔をのぞかせても、数秒はまともに反応できなかった。


「は、はじめまして、みょうじなまえといいます」





「しかし本当に来るとは」
「……」


昔ながらの造りの家のぎしぎし軋む廊下の先、とりあえずどうぞ、と通された和室で、とりあえずどうぞ、とお湯を出された。湯のみの中で、ゆらゆらする透明。外はまだ肌寒いからとてもありがたいです。


「…しかし本当に来るとは」


腕組みをして、こちらから一切視線をはずさないまま こてん、と首をかしげたこのひとは、綾部喜八郎さんというらしい。すっきりときれいなお顔に猫みたいな目、ふわりとした髪。あずき色のカーディガンにスウェットのズボンという出で立ちで、線がほっそりとしてらっしゃる。ここのお家には綾部さん以外に誰もいないらしく、家のものすべてがひっそり静まり返っている。絶え間なく動いているのは壁にかけられた柱時計の振子くらい。


「…あの」
「はい」
「ご迷惑でしょうか」


わたしは手に握りしめていた一枚の紙を、食卓の上にそっと置いた。くしゃくしゃになってしまってる。



“家事代行さん 求む 空き部屋あります”


街灯に貼られたそのチラシに出会ったのは、ほんの四日前の真夜中。わけあって わたしはぼろぼろで、泣いていたので顔もぐしゃぐしゃで、ついでに言うとお酒もちょっとだけ飲んでいて。ふらふら歩いていたら、知らない路地に出てしまった。真っ暗な道にぽつん、ぽつんと等間隔にならぶ街灯。
きれいだな。涙も忘れて、呆けたようにわたしはそこに立っていた。
小学校のころに読んだお話、難しすぎて何だっけ。あぁそう、銀河鉄道の夜。たぶん物語の内容とはまったく関係ないのだろうけど、暗闇にうかぶさみしい街灯にあのタイトルをおもいだした。銀河鉄道の夜。なんてきれいで、さみしい名前なんだろう。
そうおもったらふたたび泣けてきてしまって、嗚咽をもらしながらいちばん近い街灯に寄り添った。
家事代行さん 求む のチラシは、さみしい灯りをスポットライトのように浴びて、そこに貼られていたのだった。
なんだかわけがわからないままそのチラシを破って、全速力で部屋に帰った。どう帰ったかは覚えてないけれど、翌朝お酒も残さず(わたしはすこぶるお酒が弱い)すっきりと目覚めたわたしは、部屋の荷物をがんがん段ボールに放り込みはじめた。最低限必要なものはキャリーへ、あとの物は実家に送り、大きい家具はすべて粗大ごみへ。部屋の解約、携帯電話の解約、細々した身辺整理を三日かけて行い、めでたく家なき子となった今日、チラシを頼りにここのお家に来た。
自分でも自分が何をしてるかなんてほとんど解ってない。でも何かがふっきれたように、がんじがらめにされていた糸をぜんぶ切られたかのように、わたしはわたしの暴走に身をゆだねてしまうことにしたのだ。



ご迷惑でしょうか、の問いかけに対して何もお返事が来なくて、相変わらず綾部さんはこちらを飄々と見つめたまま首をひねっていた。しかしわたしは ご迷惑でしょうか、だったらまた出直します なんて言う気はさらさらなかった。だって出直すにしても、もう帰る家がないのだもの。出直しようがない。


「こんなに早く見つかるとはおもってなかったので」


とつぜん綾部さんが口をひらいたので、わたしはおもわずびくっと背筋をのばしてしまった。


「あのチラシに嘘を書いてしまった」
「…嘘?」


これはやっぱり、今夜は野宿なのでしょうか。
そ、それでもいい。それでもいいや。だってこれ以上失うものはないもの。それに今、わたしは自分をめっためたに傷つけたくてしかたない。なんかちょうどいいチャンスじゃないか、外は寒いし、


「空き部屋にする予定だった部屋を、まだ片づけてなくて」
「え…」
「見に来てください」


綾部さんがいきなり立ち上がって歩いていくので、わたしは大慌てで荷物を抱えて後についていった。

ここです、と開けられた部屋に、あいた口がそのままになってしまった。六畳間に、まるで図書館のように本棚が何列も並んでいたのだ。かろうじて人ひとりが通れる程度の通路が何本もあるだけの部屋。

綾部さんの後ろについて、本棚と本棚の間に入りこむ。びっしり並べられた本。学校の図書室のにおいがする。


「ここで生活できますか?」
「…あ、」


はじっこの本棚の奥に、押し入れの戸が見えた。


「押し入れ、開けてもいいですか」
「はい」


そっと引いてみると、押し入れの中には数枚の大きな座布団がはいっているだけで、あとはがらんとしていた。
よし、完っ璧だ。


「ここで寝ます」
「押し入れでですか」
「…だめですか」
「いえ、どうぞ」


「じゃあ、よろしくお願いします」
「…、こちらこそ」


綾部さんは表情の変化にとぼしくて、でも話し方とかにとげとげした感じはしなかった。年もたぶん、わたしとあんまり変わらない。彼の方がちょっとだけ上だとおもうけれど。

野宿の覚悟までしたけれど、しあわせなことに押し入れを与えられた。座布団を四枚、縦にならべたら立派なお布団。その後で毛布を持ってきてくれた綾部さんが、毛布といっしょに小さなランプを渡してくれた。びっくりして元気よくお礼を言ってしまったら、綾部さんの方がちょっとびっくりしていた。

明日からがんばろう。



…わたし、何してるんだっけ。



101215
240405 一部修正



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