遠くのほうで とんびの声がする。空気はきんと冷えて、空はあおあおと澄みわたっている。このところは昼間もあまり気温があがらなくて、水仕事がつらい季節になってきた。すっかり赤くなってしまった指さきをこすりあわせて、書物の上にたまったほこりを掃いてゆく。

いつものようにわたしを起こし、朝ごはんを食べた勘さんはすぐに お酒を買いにでかけてしまった。お菓子はよく食べているけど、お酒をのんでいるところはそんなに見たことなくて もしかしたら今日はなにかとくべつな日なのかもしれない。あれこれ予想してみようとするも そういえば わたしはあまりに勘さんのことを知らなすぎた。

幾日か前、お醤油を切らしていたことをおもいだし わたしひとりきりだったので やむをえずお店を閉めて町へ出た。万が一お客さんが来てしまってはたいへんなので、足早に向かっている途中 お茶屋さんの軒先に三月ぶん見慣れた人影。勘さん、と声をかけようとしたところではじめて となりのきれいなお姉さんの姿をみとめ、あわてて口を押さえた。いけないいけない、勘さんにはただでさえむつかしい女性関係がありそうだというのに、もしもおもい違いをされてしまったら 火に油をそそぐことになる。わたしは必死にあさっての方向をむきながら お茶屋さんの前を通りすぎた。
お店以外で勘さんを見かけたできごとと言えば、そのくらいだ。もっとも、わたしがたいていお店にひきこもっているせいでもあるのだけれど。一応お店番をしている身とは言え、毎日こんなにのんびりしていて 仙蔵兄さんに呆れられてしまわないだろうか。いちばんの気がかりといえば、そのことかもしれない。

仙蔵兄さんが十の春、遠方の学園に旅立つことになり 九つだったわたしはそれはそれは泣いて駄々をこねた。兄弟姉妹のいないわたしにとって 世界の何もかもを教えてくれた仙蔵兄さんがいなくなるということは ほとんど絶望に近い出来ごとだったのだ。仙蔵兄さんはほそい指であふれるわたしの涙をぬぐい、卒業したらかならず戻る、休みのたびだって帰ってくる と約束をしてくださった。
お盆とお正月ごとに本当に帰ってきた仙蔵兄さんは、会うたびに洗練されていて ときにぞっとするほど美しくなっていった。どんなにか華やかな場所でお勉強されているのだろう、とうっとりしたわたしに 仙蔵兄さんは ここよりももっと山奥だと言っていた。
六年が経ち、学び舎を卒業された仙蔵兄さんはしかし 村にもどっては来なかった。遠くのお城からお声がかかったそうだ。どんなお仕事をされているのだろう。もしかしたら、お殿様のお付きだったりするのかもしれない。
わたしが髪を切っていた夜、やはりどこか気が動転していておかしな再会になってしまったものの 卒業した春以来に仙蔵兄さんのお顔を見たのだった。

こうしてひとりになり、何もすることがないと ぼんやり考えごとばかりをしてしまっていけない。棚の空拭きでもしようかな。わたしが立ちあがったと同時に、足もとにころころとした毛だまのようなものがとびこんできた。


「わ、びっくりした…」


毛だまに見えたものはなんと、子犬だった。まだ片手でも抱えられそうなほどちいさくて、くりくりとしたまっくろい目でじっとこちらを見つめている。かわいらしさにおもわず表情がゆるみ、頭をなでると きゃん、と鳴いた。ふわふわしてる。


「こら、いぬっころ!」


通りのむこうから駆けよってきた人影が、足もとの子犬をひょいと抱きあげた。


「お着物よごしてしまいましたか、すみません!」


独特の風合いの髪の毛を揺らし、男のひとは深々と頭を下げる。


「そんな、だいじょうぶです」


子犬の鼻先につつかれて顔をあげたそのひとは、よかった、と笑顔を見せた。お日さまのようなまぶしさに、わたしもほっとする。
変わったお仕事をされているのか、はたまた旅の途中なのか。男のひとは 背中に背負ったふしぎな荷物から竹筒をとりだすと、子犬に水をのませていた。


「すみません、このへんに本屋はありませんか。知人を探しているんですけど」
「ここですよ」
「は?」
「勘さんの、お友だちですか?」


一見何屋さんかわからないほどに、このごろは 勘さんがあちこちでひろってきたものたちがお店の幅を占めていた。

水を飲み終えた子犬は、きゃんきゃんと甲高い声で鳴きはじめ 男のひとがこら と押さえようとする間もなく、みるみるうちに大きくなってゆく。男のひとの背を追いこしてしまうころ、その犬は大きな大きな口をひらくと、わたしをぱくりと食べてしまった。




いつのまにかわたしはまた奥座敷のふとんの上にいて、窓の外はすっかり暗くなっていた。
部屋の中はあたたかく、ろうそくが明るく燃えている。身体を起こしてびっくりした。大の男のひとが四人、床に倒れて眠りこんでいるのだ。よく見れば、そのうちのひとりが勘さんで、先ほどの男のひとも お酒の瓶を抱えてあおむけになっている。そのおなかの上では子犬も丸くなっていた。


「お前も厄介なくせがあるようだな」


すぐそばで聞こえた声にはっとしてふりむくと、壁にもたれてにやりとわらうひとがいた。


「鉢屋さん!」
「大人数であがりこんで、驚いたか」
「いいえ、わたしこそ ごめんなさい」


寝ている中に鉢屋さんの顔もあったとおもいきや、双子さんなのかもしれない、そっくりなひとだった。
床に並べられたお皿の数を見るかぎり、たくさんのお料理がならんだ酒盛りをしていたようだ。さっきの男のひとといい鉢屋さんといい、今日は学び舎でのお友だちの集まりだったのだろう。


「これは全部、勘さんが?」
「ああ。あいつも器用なもので、これがなかなかうまいんだ」
「お料理、できたんだ…」


ありあわせのもので何となく作っていたごはんが、とたんにはずかしくなる。


「鉢屋さんは、お酒強いんですね」
「いや、あいつらが強くもないのにあおるからだよ」
「え?」
「これが白湯だと気づきもしない」


両手の中にあった湯のみには たしかに透明がゆれていて、わたしと鉢屋さんは顔を見あわせて笑う。


「そういえば兵助が、お前の前髪が自分とおそろいだとよろこんでいたぞ。あいつの前髪は、学園にいるときからさんざんからかわれていたからな」


とうの兵助さんとやらは床におでこをつけて微動だにしなかったけれど、ひさしぶりに耳にする鉢屋さんのちくちくとした皮肉が すこしここちよかった。





翌朝早く、勘さんのお友だちご一行は帰っていかれた。お互いに挨拶をする暇もなかったけれど、また遊びにくると約束してくださったので、そのときに。噂の兵助さんの前髪だけはしっかりと確認し、たしかにそっくりでわらってしまった。
勘さんといっしょにみなさんを見送りに出ると、空にはまだ月がこうこうと光っていた。


「きれいですね」
「ほんと。これからもっと日が短くなるなあ」


白い息が、暗い空に吸いこまれてゆく。道の向こうへ消えてしまった四人の後ろ姿を見届けて、勘さんはさーて、と背伸びをした。


「もうひと眠りしますか」
「え、これからお出かけ…」
「しないよ。夏以来はじめてうちで寝ます!」
「じゃあ、おふとん どうぞ。わたしはもう起きるので」
「きみは寝なきゃだめ!」



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