まだ本当に小さい子どもだったころ、母に海につれて行ってもらった日のことを 断片的にだけれど憶えている。なにか大きな力に引き寄せ、はなされるように寄せる波に おそろしさを感じて母に縋ったものだった。海がはじめてだというなまえが、涙を流すのもよくわかる。おれはあの日の母みたいに、頼るべき存在になれているのだろうか、この子にとって。
「なまえちゃん、故郷に川があったろう。すべての川は海に通じているものなんだ。そう考えると、こわくなくなってこない?」
顔をあげて、なまえは海を見つめた。
「勘さんのお家に来る前、村の川で前髪を切ったんです」
「あのころは、それはもうふぞろいで、兵助みたいだったなあ」
「ほんとうは、うしろ髪もぜんぶ切ってしまおうとおもっていたの。仙蔵兄さんが止めに来なかったら」
小石でも放るかのように淡々と言葉をついで、彼女はふいにはにかんでみせる。
「あの前髪も、海に流れついていたらどうしよう」
「…その再会、うれしい?」
「うれしくありません!はずかしい」
いっしょうけんめいに否定するようすがかわいくて、おもわずくしゃくしゃと髪をなでてやる。ああ、もうだめかもしれない。博愛主義を名乗って、ひろいものと距離を保とうとしていたのはどこのどいつだ。
あらわになりかけた本音に、だめ押しのように蓋をした。深く考えないように、なまえの手をとって水からあがる。
この一年とすこしの、まとめとなる任務が来るのはもうすぐだ。おれは、その前になまえに海を見せたかった。ただそれだけの話。
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