ホームにすべりこむ新幹線のようななめらかさと、しずけさでもって目がさめた。時計の針は 縦まっすぐに文字盤をはんぶんこしている。目覚まし時計よりも早起きできた、一年にあるかないかのこういう日は ちょっととくべつな気もちになる。ベッドから起き出し、コットンのワンピースに着がえて ぬくもりの残るパジャマを洗濯機へ。冷たい水が注がれてゆくなかへ洗剤と柔軟剤を入れて、しゃぼんの匂いの指と顔を洗ってキッチンへ向かった。
朝いちばんにどうしてもあまいもののことをおもってしまうわたしは、こうして兵ちゃんの起きてこないときだけ ミルクパンでココアを作る。あまい匂いに酔いそう、なんてしかめつらをさせるのはしのびないので、一緒の朝ごはんのときは ふたりして紅茶をのんでいる。だけど きょうは早起きしたんだし、いいよね。
あたたまったココアをつれて、ベランダに出た。せっかくきれいに咲いた桜は、おとといの雨でほとんど散ってしまった。曇り空は低く、どんよりとひろがってつめたい風を吹かせている。遠くの川の水面に、ちらちらと花びらが光る。
キッチンにもどり、おべんとうにとりかかりながら、今日のことを考える。仕事のあと数か所寄るところがあって、それから夜はライブ。あちこち移動する日になりそう。
そんなことをつらつらおもいながら、いつもは冷凍のミックス野菜といっしょに炒めてしまう卵を、だし巻きにしてみる。あ、きれいにできたかも。ずいぶん前、盛大にこがして以来作らなくなっていたけど、意外とすんなり巻くことができた。
おべんとう箱にあれこれと詰め、あとは兵ちゃんの朝ごはんのためにお皿にのせて、ラップをかける。
歯をみがいて、いつもより気もちていねいにお化粧をして、洗いあがった洗濯物を外に干して。それでもまだ余裕があったので、髪を編んだり巻いたりして遊んでいたら、ちょうどいい時間になった。
玄関で黒いハイカットのひもを結んでいると、お部屋のドアから兵ちゃんが顔を覗かせた。
「兵ちゃん!おはよう」
「…おはよ」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「これから寝るところ」
これから…。いちど何かに夢中になると 寝ることも食べることも忘れるきらいがある兵ちゃんは、きのうの夜、また楽器の調整でもはじめていたのだろうか。
「兵ちゃん、今日は?」
「バイト休みだから、ライブまでは何も」
「そっか。わたし 今日行くね」
「三ちゃんも来るってさ」
「ほんと!?三ちゃんにしばらく会ってないなあ。夜ごはん、いっしょに食べてくれないかな」
「……連絡してみたら」
お昼間なにもないなら、兵ちゃんもライブまでちょっとは休めるね。そんなことを言うと、彼は眠そうな瞼を長い指でこすりながら、すこしだけわらった。兵ちゃんが楽器を弾いているバンドの音楽は ふだんわたしが聴く雰囲気とはかけはなれているけれど こうしてたまにステージの兵ちゃんを覗きに行くのは、彼のきれいな指が楽器を鳴らすところを見るのがすきだからだとおもう。おなじテーブルでおはしを使ったり、手をひいてくれたり、ごきげんな夜 わたしの伸びた髪をかわかしてくれたりする指。はずかしいような 申しわけないような ほんとうはいつだって見にいきたいけれど、いたたまれなさと好奇心のたたかいで好奇心が勝ったときだけ、チケットを買わせてもらうことにしている。兵ちゃんはくれるというけれど、やっぱりお客さんなのできちんと買おうとおもう。前の方はこわいので、いつもうしろのほうで ジュースやお酒を一杯だけもらってこっそり見ているだけだけれど、三ちゃんがいたら心強いや。
「朝ごはん、テーブルの上にあるからね。じゃあ、また夜に、」
会おうね、というところまで言葉が出ないうちに、開けたドアの外の寒さにかたまってしまった。さ、さっきまでこんなに風 つよかったっけ。四月をなめていた。
「待ってて」
兵ちゃんはいったんお部屋に入ると、よく着ているナイロンのパーカーを手にしてもどってきた。端正な顔の兵ちゃんになぜかよく似合う、派手な色に 蛍光色のジッパー。待ち合わせをするときは、いい目印になってくれる。わたしの頭のうえからばさりとかぶせると、それ 着て行っていいから、と言う。視界が暗い。
おとこのひとのものだとひとめ見てわかるけれど いつもならはずかしさよりうれしさがつのって よろこんで着て出かけるだろう。でも兵ちゃん、今日は、
「だめだよ」
「いいじゃん」
「だめだよ…」
「いいじゃん」
わたしがこれ着ていたら きっとたのしくなくなってしまうひとがいるよ。せっかくのライブなのに。
兵ちゃんはパーカーごとわたしをひきよせると、額をかさねた。手をのばし さらさらの髪をなでてみると、くちびるどうしが音をたてる。
「…なまえ、今日 かわいい」
兵ちゃん、とても眠いのだろうな。あまり聞いたことのないようなことばを ごく近い距離でこぼされて、足もとからくらくらしてくる。早起きしちゃったからだよ、っていうのは ひみつにしておこう。
兵ちゃんのパーカーの下で、何度かくちびるはふれあった。やっぱりきょうは肌ざむいから、このパーカーは借りていくね。夜に会うときは ステージの上と下だね。声にならなかったあれこれはとりあえずしまって、わたしは はずかしさで顔をあげられないまま 眠たげな兵ちゃんに手をふった。
140117