海沿いの国道にさしかかるころ、空は重たい色をした雲をうかべていた。曇天の下の鉛色の世界に ぽつりと光る黄緑の自動車を想像して、わたしは 身体にかかる靄をやりすごす。となりの運転席では、しきばくんが右手をハンドルに乗せ 渋滞の列のさきをぼんやりとながめている。
しきばくんの運転する車に乗せてもらうのがすきだった。上手だとかそういうわけではなくて ただ いつもはだいぶ遠いところにある視線が、高さも距離も近くなるから。けれど いま、彼のだいすきなクラシックの音楽も さっきまでのおだやかな日ざしもない空間は、出口をうしなってなお じりじりと前だけを目ざしている。


「飲む?」


沈黙に耐えかねてさしだしたペットボトルを、しきばくんはきょとんと見つめた。それから、ようやく表情がゆるむ。


「ありがと」


わたしのお茶をひとくち飲むと、「天気、悪くなってきちゃったね」、しきばくんは 長い睫毛の下のまなざしを 窓の外へと置いた。


「午後から下り坂って、天気予報も言ってたよ」
「うーん、そうかあ」
「雨が降ると、むかし骨折したところが痛くなる」
「え、なまえどこ?どこが痛いの?」
「いまは平気だよ。中学生のとき、階段からおちて足を折ったの」


なんだ、いま痛くないならよかった。ほっとした笑みは 前へ向きなおってすぐ、ふたたびくもってしまった。


「純ちゃん、だいじょうぶかな…」




純ちゃんのレースに行くのはこれで数回目だけれど、まさか落車したところを見るだなんて おもってもみなかった。

ひょんなことから知りあった純ちゃんに おまえと気があいそうなやつがいるよ、としきばくんを紹介されて 三人でいっしょに遊ぶようになったのは、もう何年か前のこと。ちいさいころから友だちで、ずっと自転車なかまでもあるふたりの話をきいていて なんかおもしろそう とつぶやいたら、レースを見においでと言ってくれた。積極的に出場を重ねる純ちゃんのレースに、マイペースに自転車をつづけているしきばくんの車でつれていってもらう というのがたのしみのひとつとなり、純ちゃんの労をねぎらいながら 三人でごはんを食べるのも恒例になった。
いつも冗談を言ったり、紅茶を飲んでのんびりしていたり、歌がじょうずでおしゃれもすきな純ちゃんが 怪我を負って見たこともないほど苦しそうな顔をしていて、わたしはショックのあまり足もとから血の気がひいてゆくのを まざまざと感じていた。純ちゃん。ようやく声がしぼりだせたころ、はっとして隣を見あげると 暗い光をやどした目で呆然としているしきばくんがいた。そして、とうとつに 場違いだけれども瞬間的に ふたつのことがふりそそいできた。わたしはしきばくんがすきなのだということと、わたしたちの間で 純ちゃんがどれほど燦然とかがやくおとこのこかということ。




「…青八木くんから、連絡来てたよ。二、三日おとなしくしてたら、ちゃんとよくなる怪我だったって」
「そっか…」


無理やりのような笑顔をつくって、しきばくんはつづけた。


「もうすこしオレたちのこと、頼ってくれたっていいのにね」


いつもはかわいいほっぺのハートが、泣いているみたいだった。オレたちって、わたしのこともくくりに入れてくれているしきばくんのせいいっぱいのやさしさが ぬるま湯のように苦くてあまい。
車の列がわずかに進んで、しきばくんも長い足をブレーキから浮かせる。すぐにまた止まって、道の先いっぱいに 赤いランプが点々と光る。わたしのひざのすぐ横に置かれた 骨ばった指のおおきな手に、がまんできずに手をかさねた。


「なまえ?」


ふしぎそうに覗きこんでくる澄んだ目を、見つめかえす勇気なんてあるはずもない。


「なまえ?骨折のあと、痛いの?」


痛くないよ。いまはね。でも、もうちょっとで痛くなるかも。


「……純ちゃんが元気になったら、温泉行こうよ。温泉入ったら怪我ももっとよくなるよ、きっと」


わたしはつとめて明るい声で言い、しきばくんは目をまるくした。


「温泉かあ。いいかもしれないね。東堂さんとこはちょっと高そうだなあ」
「とうどうさん?」
「高校の先輩。でもなまえいいの?オレたちと行ったら、おんなのこひとりだからつまらないかもしれないよ」


つまんなくないよ。いまだって、渋滞だって曇りだってこんなにたのしいもの。純ちゃんが痛いおもいをしてるのにごめんっておもうけど わたしはしあわせだもの。そこまで考えて、なにひとつ言葉にできないことに気がついたら とたんに涙腺がぶれはじめた。やばいかも、覚悟した瞬間、フロントガラスからぽつりと音がした。


「あ、雨」


雨粒は瞬く間にガラスをぬらしはじめ、しきばくんはワイパーのスイッチを入れた。わたしはとっさのことにふと涙をわすれ、雨に感謝をした。冷えた窓を指先でなぞりながら、いくすじも伝う雨が やがてひとつの雫になって落ちてゆくのを見て、わたしはそっと口をひらいた。


「ねえ、でもわたし、きょうの純ちゃんのレースが晴れてくれてよかったって おもってるよ」


140415
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