91点とは、さいていだ。絶望だ。わたしはもうだめかもしれない。
頬づえをつき、机の上の英語91点を見つめていると 数字の九と一が頭の奥のほうまで深くつきささり、抜けなくなったような気になる。91点、91点、英語史上最低点は、英語以外がまったくもってだめなわたしの 道端のたんぽぽ程度のプライドをぷちりと摘んでいってしまった。

期末試験の最後の答案が返されて、ざわめきはじめた教室のまんなか、わたしはひとり 真っ暗なライトで照らされている。気持ちが暗くなると、こんなふうに 視界まで翳ってくるなんて。


「おい」


頭のすぐ上から聴こえた低い声に、驚いて 弾かれたように顔を上げる。机の上をさえぎっていたのはふたつの人影で、この、苦悩に満ちています といった感じの顔のひとは 確か、隣のクラスの。


「みょうじ、折り入って頼みがあるのだが」




精神的にぼろぼろのわたしをきれいに無視して なかば強引に話をすすめた真田くんのせいで、わたしは放課後 二年生の階にある空き教室へとむかうはめになった。英語が苦手な部活の後輩の 切原くんというひとに、試験の復習をさせてほしいのだそうだ。王者立海の名にかけてなんとかとか、文武両道がどうのとか 一生懸命に話していたけれど、わたしはといえば目下の91点をどうしてくれようということばかり考えていたので あまりよく覚えていない。いっしょに来ていた柳くんが、真田はどうしても学年で一番英語のできるみょうじに頼みたかったらしい、と言っていたけれど、見ず知らずの三年に勉強を教えられるなんて 気の毒な切原くんだ。真田くんとしては そういう点は、わりとどうでもよかったのかな。

去年よく出入りしていたはずの教室は、どこかがらんとして 居心地のよくはない空間になっていた。夏のはじめの匂いが、しずかな空気の中にかすかにただよっている。はじっこの方に鞄をおろし、窓を開けて外を眺めていると あわただしくドアのひらく音がした。


「すいません!遅刻しました!」


いきおいよく飛びこんできたのは、くるくるとした髪の男の子だった。あれ?と言いながら、教室を見まわす。


「あ、真田先輩はいない感じっすか」
「いない感じです」
「…うわあ!よかった!また殴られるとこだった!」


物騒なことを口走りながら席に着いた切原くんは しかし英語の答案を出そうともせず、じっとこちらを見つめている。窓のそばでたたずむしかないわたしにむかって、彼はにんまりと薄いくちびるを吊り上げた。


「ねぇ先輩、見ず知らずの二年に英語教えるなんてかったるくないっすか」


それに似たこと、さっきわたしも考えてたよ。


「勉強は終わったってことにして、お互いこのまま帰りません?」
「わたしはいいけど、真田くんは殴ってくるかもしれないよ」


切原くんは眉根を寄せてふたたびため息をつくと、あきらめたように筆箱やらノートやらを鞄から取りだした。
細くてごつごつとした指に、シャーペンはあまり似あわない。きっとこの時間にも、熱風の吹くテニスコートにいたいって おもっているんだろうな。
見ず知らずの三年生に英語を教えられることよりも、やりたいことがあるのに 時間を奪われていることのほうがよっぽど気の毒かもしれない。気づいたとたん、切原くんへの申しわけなさが 砂時計のようにふりつもりはじめる。


「あーあ、わけわかんねーよ、俺日本人なのに。先輩はどうしてそんな熱心にやってられんの?」
「英語を?」
「そ、英語を」
「あのね、はずかしいんだけど」
「えっ、はずかしい理由とかあるんすか」


切原くんの、さっきまでそのへんを散歩しているようだったテンションが、きゅうにこちらに向けられる。おおきな目に見つめられて、なんだかいたたまれなくなりながら、うーん、もうこれは 話さざるをえない状況だよね。


「小学校のときに飼ってたポピーって犬が死んじゃって、そのときに悲しくて悲しくてわたし、二日くらい部屋にこもって泣いてたんだ」
「…は、はぁ」
「それでお母さんに、何としてでももう一回ポピーと話したいって相談したの。そしたらお母さんが、すごい真面目な顔して、ポピーはいま天国にいるから、天国は外国だからとりあえず英語話せないとねって言って」
「……」


今はもう、わたしだってさすがに ポピーとは二度と話ができないことも、天国の共通語が英語ではなさそうなことも 知っている。
だけど、こうして英語の点数がいつもより伸びなかったりすると ふと ポピーの顔が脳裏をよぎって、たぶん必要以上の自己嫌悪をしているし 寒くて湿ったところに閉じ込められたような気持ちになったりもするのだ。約束をやぶってしまったときみたいな、うしろめたさにつき纏われる。

目の前のにぎやかな子はとうとう沈黙し、外から吹いてきた風がつめたく感じる程度には 教室の空気も冷えきっていた。始まってもいない個人授業が おもわぬ方向へと座礁して、この収拾のつかない空間からどうにかして逃げられないものか、そればかりが頭をぐるぐる回る。

うつむいた切原くんは うすいくちびるを真一文字にむすび、机のしたで指を所在なげに動かしていた。ごめんね、と謝ろうとした瞬間 さきに言葉をとられる。


「それは、はずかしいっすね」
「…はい」
「…でも、なんか解んない気もしないっすよ。俺もこないだ、犬、死んじゃったから」


はっとするわたしをよそに、切原くんは くすくすと、何がおかしいのか 笑いはじめた。


「にしても、天国は外国とか、お母さんまじ適当っすね。おかしいだろ」


まるめられたうすい背中が、小刻みにふるえている。そ、そんなにおかしいか。黙ってられるよりは、全然いいけども。だいすきだった犬をなくしてしまった者どうし、へんな連帯感というか 仲間意識が お互いのうちにじわりじわりと、芽生えているような気がした。


「え、そんで、ポピーは何犬だったんすか。めす?おす?何歳から飼ってたの?俺やっぱ、犬好きなんすよねー」
「…勉強しないの?わたしはいいけど、真田くんは殴ってくるかもしれないよ」
「まぁ、そん時はそん時ってことで!」


ポピーは黒いトイプードルだったよ。くるくるした感じが、ちょっとだけ切原くんに似てたよ。つぎつぎと繰り出される質問をかわして、お家に帰ったら わたしもテストの復習をしよう。91点なんてまだまだ、天国じゃ暮らせなさそうだもの。


130113
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