指のさきから、このまま水になってしまえたら。そうおもった。ざぶりと水面から顔をだせば、空気のつめたさが肺にしみる。

片足のつま先だけで浅瀬まで。ちょうどいい岩にすわると、水の中から引きあげられた右足が途端にだらりと重みをもった。水をまともに蹴ることができるのは、もうきみしかいないんだよ。左足に語りかける。もちろん声にはださないで。

早朝はいつだって静謐だ。


自主的に請けおっていた忍務で、ひょんなことから右足を使いものにならなくしてしまったのは、ふた月ほど前のこと。怪我がひどいわけではなくて、ほどなくしてもとの生活に戻れたかわりに、原因のわからない痛みがずっとのこってしまう結果になった。立ってすわって歩けるけれど、いままでのような実習ではまるで機能しない足。なんで痛いんだろう、それがわからないのがつらいです。ぽつりとこぼしてしまったわたしに、伊作先輩は泣きそうなかおをした。

そんなわけで、もともと入っていた委員会も授業の実習も怪我で休んでいるうちに行きづらくなり、いまでも顔をだしていない。

わかってるんだ、そろそろ決めなくちゃ。ふた月も経ったのだもの。


後ろにたおれて寝そべって、まだ青い辺りの景色に融けこむ準備。そこに音もなくあらわれた気配は、


「やっと見つけたぞ」


会いたくないひとの、やさしい声がした。




足のことがあって、ふつうの生活に戻れたころから、まだだれも起きていない学園をそっとぬけだして川で泳ぐようになった。もともとは七松先輩のペースで走ることもできなくはないくらい、動いてることがすきだった。でもほんとうは、泳ぐことがもっとすきだった。右足はそれをわたしにおもいださせて、そのかわりにしんでしまった。
水のなかだけがわたしを自由にしてくれた。右足をひきずりこんでそのまま食べてしまった重力も、水のなかではわたしに干渉せずにだまっていてくれる。

七松先輩はそんな重力ととても仲のよいひとだった。いや、仲がいいっていうのとは、ちょっとちがうかも。重力と競いあいながら、ひっぱられることがたのしくてしかたがないひとだった。


「委員会に来ないし、探してもいないしでずっと会えなかったじゃないか」


そんな七松先輩が、きょう水のなかのわたしに会いにきた。とても奇妙で、それから気まずくて、どんなかおをしたらいいのかわからなくなったわたしは 目をとじた。


「ごめんなさい」


委員会にいけなくて、だまってお休みして。


「無断で休んでたのを怒ってるわけじゃないぞ。ひさしぶりに会えたからうれしいんだ」


あのまぶしいようなえがおを わたしにむけたのだろう。見なくてもわかる。
ちゃぷり、と 寝そべったまま、わたしは右足を水のなかにかえした。

しずかに瞼をあげれば、七松先輩はわたしの右足を表情もなくみつめていた。


「金吾も四郎兵衛も三之助も…それから滝夜叉丸が、すごく心配している」


そう。何をかくそういまいちばん会いたくないのは滝夜叉丸だ。あのこはひとつ下なのに、いつもわたしの心配ばかりする。世話を焼く。ふだんは自慢話ばかり並べたてるくせに、委員会ではわたしを含めみんなのめんどうをみる。


なまえ先輩、またそんな怪我をして!これからどうするって言うんです、忍の仕事なんてできないじゃないですか!


必死にまくしたてる彼が目に浮かぶ。けれど、いつも最後にやさしいことばをつけくわえるのだ。


でも、生きて帰ってきてくれただけで、よかったです。



あの場所はもどるにはやさしすぎて、どうにかどうにか凍りはじめた感情なんて きっとひとたびに溶かされてしまって、だからわたしは水のなかへ逃げたのだ。



いくら滝夜叉丸に会いたくないからって、七松先輩が来るのは反則だ。だってそれは、それはもう奥の手だ。別格だ。いちばんはじめに最後の手段に来られたら、わたしにはもう 後がないのに。
存在だけで すべてを溶かしてしまうようだというのに。


「みんなみんな、お前に会いたがってる、でも、」


熱くて大きな手が、わたしの冷えきった頬にそっとふれた。


「私がいちばん、なまえに会いたかったぞ」



「…七松先輩、」


喉の奥がかさついていた。うるおそうとすれば それは嗚咽のようで、けれど構わずわたしはつづけた。


「わたしはひとりで勝手に背負いこんだ忍務で、ひとりで勝手に怪我をしました。ひとりで苦しんで、勝手に委員会を休んで、」


だからもう、
やさしくしないで、
やさしくしないで。



「…ひとりで、ひとりになったろう」



しずかなその声に、わたしのなかのすべてが止まった。



「ひとりでひとりになって、ひとりでぜんぶ考えて、それで、ひとりで答えをだそうとしてる」


やめて、


「だが、そんなこと誰が望んでるんだ?私はそんなの望んでない。滝だってそうだ。それから、たぶん、お前も」


いやだ、


「頼れなんて言わない。ひとりで考えるのだって大切だからな。でも、ふた月もひとりだったらもう十分だ」


じょうずに呼吸ができない。右足があつい。
七松先輩はわたしの背中に手をまわして、わたしを抱きおこし そのままぎゅうとだきしめた。

しっかりとした腕も、胸板も、なにもかも熱いひとだ、と そうおもった。きっとあたたかなのだろう。けれど、いまの冷えたわたしのからだには熱すぎるくらいだった。




「私がお前といたいんだ、なまえ」




骨も軋んでしまいそうで、からだをあずけて目をとじたら、つめたい頬に熱い雫がつたった。


ばしゃ、と右足で水をかきまわす。足首をあげれば重力がまとわりついてきた。水音に、先輩の腕がますますつよくなった。顔をあげて表情をうかがおうとすれば、泣きそうなかおでわらっている彼がいた。

さいごの氷がからり、と融けだした音が からだの奥からきこえた。一度とかしたなら、

いちど とかしたなら、もうすべて もっていってください。
ぜんぶあげます。

つたえたいことは喉の奥で消えて、かわりにわたしは指さきで七松先輩のうでにそっとふれる。




ふたつの足でしっかり立ったら、だいすきなひとたちに会える気がした。




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