やわらかい気配にふりかえる。案の定、それは屋根の上をこちらにむかって歩いてくる雷蔵のものだった。おもわずほころんでしまったわたしのくちびるに、こたえるように彼もゆるりとほほえんだ。
「こんばんわ」
「こんばんわなまえ。待った?」
だまって首を横にふれば、雷蔵はわたしのとなりによいしょ、と座り、手にもっていた包みをひらいた。
「夕飯のときにおばちゃんに団子をもらったよ」
もう音もたてずに歩くのは身体にしみこんでいるだろうに、三日月の夜だけ隙だらけになる彼がわたしはとても、。
僕の手もとからいただきます、と団子をひと串さらい、なまえはうれしそうに口をつけた。
「雷蔵ははれおとこ?」
「どうして?」
「雷蔵と会う日は、いつも晴れてるよ」
ある日図書室で偶然会って、偶然話して、偶然話があって。なりゆきで友だちになり、なりゆきで親しくなって、なりゆきで月に一度か二度、定期的に会うようになった。それは夜、五年長屋の屋根の上で。彼女の表情や声、ちょっとしたしぐさに新しい発見があるたびうれしくてうれしくて、ああでもきみは、あの日の偶然だとかなりゆきに僕の意思がたっぷりと絡んでいることを、きっと知らずにわらっているね。
「たしかにいつも、会う夜は晴れてるね」
「月がきれいだもの」
「そうだね」
すこしの沈黙がながれたあと、雷蔵の温かなてのひらが、わたしの手のうえにかさなった。ずりりと疼いた心臓をさとられないように横目で彼の表情をぬすみ見ると、あいかわらず月を見あげるおだやかな横顔があった。くやしくて、うれしくて、それがなみだにかわってしまいそうで、わたしも上からてのひらをかさね、雷蔵の肩に頭をあずけた。もうこれで彼の表情はわからない。けれど、それはどうでもよかった。吹きぬけた風が前髪をくすぐった。
右肩によせられた温もりに、なまえがうつむいていたことが救いだった。火照った顔も油断すれば震えてしまいそうな指さきもたまらなくはずかしい。けれどそれよりなにより、このまま時間が凍ってうごかなくなればいいとぼんやり考えた。僕の思惑でつくりだされていた偶然もなりゆきも、いまの彼女の前では効力を失っていた。でも、でもまだ。まだ、主導権はこちらにあるはず。左手を、なまえの頬へとゆっくりのばす。
雷蔵雷蔵、わたしはきみに謝らなければいけないことがあるね。きみの想いなんかはとうにきづいてる。それなのにこの曖昧で甘やかなここちよさにただよっていたくて、きづかないふりをつづけてる。少しずつのびてくる指さきが頬にとどく前に、わたしはきっと身体を離してしまうのだろう。もうすこしもうすこし、きみはいつまで待ってくれるかな。ひどいおんなのこだとおもうかな。逃げないことを信じているから、こんな仕打ちもできるんだって、いつかはわかってくれるのかな。ほら月だって、まだまだ満月にはならないんだよ。