先日十数人めの彼氏さんとの破局をむかえたみかちゃん、今回は穏やかだったよ と得意そうに笑った。自分の部屋へ彼をよび出し、今までお互いにかけあったお金や品物をおもいつく限りに清算したのだそうだ。ちゃっかり屋さんのみかちゃんが律義に計算機をたたくところが想像できずにいると、もちろん気に入ったプレゼントは手もとにとってあるけど、とつけくわえて さすがだな。ちいさく拍手を送った。

そこで、かねてから悩みの渦中にいたわたしは閃いたのだ。学校は、よほどの悪いことをしたら退学になる。会社なら、働かなければ首になる。つまりはそこにいるべきひととして、機能しなくなればいいだけの話。





 

「水族館に行くけど、なまえも行きたい?」


自分が行くってことはしっかり決めてからわたしに尋ねる綾部くん。わたしはおまけで、おまけの行く行かないにかかわらず 彼は自分が決めた日には水族館に行くひと。そんなところがとてもすきだな、と口もとがゆるみ、あわてて首をふった。行きたくないの、とまた聴かれて そういう意味じゃないよ。今度はいっしょうけんめい頷いた。意思とはまったく逆方向へすすんでゆく会話に気づいて、行きたい とようやく答えられた。


「それじゃあ、明日の十時に駅でね」


たったそれだけの会話で、百メートルを全力疾走したときの倍は疲れた。疲労困憊だ。綾部くんとおつきあいとやらを始めてふた月、幾度こんなおもいをしたかなんて数えきれない。こんなことがあと何十回何百回とつづけば、わたしは壊れてしまうだろう。だから明日。綾部くんに解雇してもらうのだ。





 

綾部くんはくらげや深海魚がすきそうだとおもっていたけれど 意外なことに彼はプランクトンのような、ちいさなちいさな生き物の水槽の前から動こうとしなかった。


「僕もなまえも、こういうのを何度も何度も生きてから今にいるんだよ」


それは前世とかの話?よく解らないけれどどこか怖い。でも、ちいさなちいさな生き物たちは黙っていてかわいいので、きらめく水槽についつい見入ってしまった。





 

金属の階段をかんかん上がって屋上へ出ると、空のまぶしさに目の奥が焼けるようだった。深海から一気に水面へ出るとこんな感じなのかもしれない と、さっきのちいさな生き物の気もちを考えた。目もなく耳もなく鼻も口もなく ひとつのなにかの感覚だけで生きている、いとしい生き物たち。


ポケットの中に手をすべりこませると、すべすべとした感触の かるい木のかたまりに触れた。ひと月前に綾部くんがくれた、猫のかたちのペーパーウェイト。ちょっと癖があるけれど 愛嬌のある顔をしていて、紙を押さえておかなければならないことなんてあまりないけど、機会を作り出しては使っていた。すこし経ってからそれが綾部くん手ずから作ったものだと知ったとたん とてもじゃないけど もったいなくて使えなくなった。色は塗られていなくて、つやもなくて、よくやすられていて。綾部くんの指さきが猫の顔を彫るところを想像したら、なぜかはずかしくてたまらなくなった。

木のぬくもりを両手でつつんで、綾部くんの手のひらの上へ乗せる。顔色ひとつ変えずにまばたきを繰りかえす、その睫毛がつくりもののよう。


「これ、返すね」


綾部くんは、なにも言わない。


「これからは、綾部くんと話すことも、連絡を取ることもないだろうし こうして一緒におでかけすることもなくなるとおもうけど、」


おもうけど、何なのだろう。ごめんね?よろしく?謝るなんて上から目線だし、よろしくお願いしたくはないからこんなことを言ってるんだ。そのあとに継ぐ言葉をどうしても見つけられず、今度は、綾部くんが口をひらいた。


「僕はいま」
「うん」
「ふられているね」
「…ちがうよ、わたしが、綾部くんにふられたいんだよ」


イルカのジャンプが成功したのかな。プールの方から、拍手と歓声が聴こえた。色とりどりのにぎやかさが、綾部くんの動かない表情をいっそう静謐に見せて、「悲しい」。彼はそうつぶやいた。


「なまえと僕は今までもこれからも、わかりあえないかもしれない」
「そうかもね」
「きみは僕をよろこばせることも、つき落とすようなことも簡単に口にするから。でもそれは、なまえのせいじゃ決してない」


綾部くんの白い手が、わたしの頭の上にのる。


「だから、難しく考えることはもうやめたんだ」





 

いまの時点で、機能を失うことは、機能を持ち続けるよりもむずかしかった。ただそれだけの話。猫のペーパーウェイトはふたたびわたしの部屋にあり、わたしは今日も綾部くんに会いにゆく。見ることでも聴くことでもなく、ひとつの何かの感覚でもって わたしたちの均衡はふしぎな形に保たれているのだ。それは疲れることだけど、あまり嫌なことではないよ。



121008


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