きのうの夜はわくわくして仕方なくて眠れなかった、なんてはずかしいことは言えない。それでも朝に弱いわたしがこうやって 7時を待てずに飛び起きて、顔を洗って髪をとかして違和感に気づいてトイレに行ったら。こんなことって。いや、こんなことって。


自分でもわかるくらいにうなだれてベッドに戻ると、充電器につないであった携帯を手に取る。ふたりの顔が頭に浮かんで、すこし考えて数馬に電話をかけた。


「…もしもし?」


数コール目で取られた電話口の数馬は、起きたばっかりなのか もしかしてまだ寝てたのか、とろけた声でおはよ、と言った。


「おはよう…あのね…」
「どうしたの?」
「ごめん、今日プール藤内とふたりで行って」
「えっ…どうして?」


電話越しに眉根をよせても、とまどっている様子の数馬には伝わらない。ため息をついたあと、ごめん、ともう一度ちいさくつぶやいた。


「せっかく楽しみにしてたのになあ…」
「ごめん」
「もうなまえってば、さっきからごめんしか言ってない」


呆れたようにからりと笑う数馬。やさしいなあ。でもなんにも解ってない。もうちょっと心配してくれたり、また今度にしようかとか聞いてくれたっていいのに。ああ、けど それはそれでいやかもしれない。


やだよもう、わかんないよ と、おもわずこぼれた言葉は涙声だった。せっかく着がえた水色のワンピースのスカートに、ぽたぽたと水玉ができていくのを他人事みたいにながめながら、止まない嗚咽のせいで視界が熱い。


「なまえ…」


心配そうな数馬の声に、申し訳なさといたたまれなさと、ほんのすこしの刺々と。なんだか耐えられないようなおもいで ごめんねじゃあね、とだけ告げて電話を切った。


静かになった部屋で、ベッドに伏せるとまたゆるゆると涙があふれてくる。ずっと前から約束してたのに、藤内と数馬に申し訳なくて なんてきれいなものではなくて、ただ情けなくてくやしい。下半身が重くてだるい。



あーあ。あと何年たったらこんなことを「こんなこと」にできるだろう。たいしたことないって割り切って、ごめんも一回でかるく断れるようになるだろう。そのときも藤内と数馬はなかよくしてくれてるかな。いつも一緒で、いつも楽しくて、男の子だとか女の子だとかなにも関係ないのに、こんなときばかり わたしはふたりから置いてきぼりになるような気がする。きっとほんとに、置いてかれてる。



ブランケットの下でたよりない素足をすりあわせながら、プールなんか全部蒸発しないかなとおもった。





いつの間にかうつらうつらしていたのか、握りしめたままの携帯が震える感触で目が覚めた。画面には藤内の文字。なにも考えずに電話を取ってしまってから、しまった、と はっとする。


「…もしもし」
「なんだ、いるんじゃないか。さっきから何度もチャイム押してるのに」
「え…」
「下、下。窓から見て」


あわてて窓を開けると、ぶわっと丸い夏のはじめの風が部屋の中に吹きこんできた。玄関の前、顔を出した窓の下には電話を手にする藤内と、笑顔で手を振る数馬が自転車とともにそこにいた。


「早くおりて来なよ」


外からと電話から、二重に聴こえる藤内の声。そうだよ暑いんだからさぁ、なんてのんびりつけくわえる数馬の声にも背中を押されて、ゆうべ用意していた鞄と帽子をつかむと階段を駆け降りた。違和感たっぷりの腰回りに顔をしかめながらサンダルをつっかけてドアをあける。
湿気がからみつく夏の空気のなか、今度は藤内と数馬と同じ高さで目があう。


「よかった、なまえがどこにも行ってなくて」
「絶対家にいるって言ったの数馬なのに」
「そうだけど!どっかに出かけちゃってたらどうしようかとおもってたから」
「ほんとだよ」


言いながら藤内は自転車にまたがり、数馬もそれにつづく。


さっきから状況についていけないわたしは、先ほどの気まずさと混乱から押し黙ったまま、縋るように数馬を見つめた。…にらんでいたくらいかもしれない。

そんなわたしに気づいた彼は、ぽんぽんと自分の自転車の荷台をたたいた。


「ごめんね、痛いかもしれないけど、応急処置はしてきたから」


後輪の上にある金属の荷台には、ざぶとんがビニールテープで巻きつけられていた。


なんなの。

なんなのもう。


同情しないで。置いて行かないで。女なんかやめちゃいたいよ。プール行きたかったなあ。ふたりはいいよね、男の子で。情けない悲しい。だいすきだよ。


一瞬のうちにいろんな感情が血のように駆けめぐってぐちゃぐちゃに混ざりあった。ふたたびじわじわと潤みそうになる視界と無言で闘っていると、藤内が待ちきれないと言ったようにため息をついた。


「ほらなまえ、行くよ」


からだの中をぐるぐるしていたものを残らず投げ捨てるように、数馬の自転車の後ろに飛び乗った。他の男の子たちに比べたら細い腰にしがみついて、洗いざらしの白いTシャツにおでこを押しつける。

泣いてない泣いてない、でも、ぜったい見られないように。



数馬が笑った気配がして、自転車はよろめきながら走り出す。ふたり乗りってはじめてだけど、すごい、浮いていくみたい。ぐんぐんスピードが上がると、スカートの裾から風がはいりこんでくる。わたしの気もちも軽くなる。下半身の重たさすら、風に流されていくみたいだった。こんなことで。くやしいけれど、こんなことで。


「数馬!」


距離なんてほとんどないのに、ぼうぼうと鳴る風に負けないように、大きな声でわたしは呼んだ。


「なにー?」


数馬も負けじと大きく返事をする。


「どこ行くの?」


一拍おいてから、数馬は前を走る藤内にむかって叫ぶ。


「藤内!どこ行くの?」
「え?知らないよ!なまえ!これからどこ行くの?」


雲の切れ間からの強い日ざし、淀んだ風を切りさいて走る自転車、ふりむいた藤内と視線がぶつかる。


「知らないよ、そんなの!」


最後の方は笑ってしまって言えなかった。つられて数馬もくすくすと笑いだし、自転車はまたよろめく。前を走る藤内の肩もふるえてる。ざぶとん越しのごつごつした荷台も、数馬のシャツの柔軟剤の匂いもいとおしくて、回した腕に力をこめた。



111204


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