伊作くん、わたし。ごめんなさい こんな夜にいきなり来たりして。でも、どうしても聞いてほしいことがあって、。…うん。今日じゃなきゃだめだったの。あ、手ぬぐいありがとう。外はひどい雨ね。…ふふ、そうね、明日なのにね。




前に、わたしは八つのとき 親と死に別れたと言ったでしょう。ごめんね、あれ、嘘なの。ほんとうは売られたの。…奉公じゃないわ、置屋に。大きな花街の隅にある、小さな佇まいの店だったわ。
わたし、親に売られたってことにしばらく気づかなかったのよ。預けられているとおもってたの。置屋も何をするところか全く知らなくて、わけのわからないまま店の下働きになった。やせ細って学もない子どもだったから、客を取ることなんてできるはずもなかったの。


日が経つうちに、親が迎えに来ないことはいやでも解るようになっていったわ。捨てられたんだって、ようやく理解したら途端に目の前が真っ暗になってね。死んでやろうとおもったの。姐さんたちの目を盗んで台所を抜けだして、窓から飛び降りようと二階の部屋まで走った。部屋の戸を開けていよいよ窓に手をかけたところで、後ろから声がしたの。君、なにをしてるの?って。確かにまだ客がいないはずの部屋だったのに、ふりむいたら男が立っていた。年齢も感情も全く読みとれない顔をした、どことなく浮世離れした雰囲気の男だったわ。わたしは必死だったから、そんなやつは無視して窓枠に足を乗せたの。そうしたら背後から男に抱きかかえられて羽交い締めにされてね。わたしなんかいらない、いらないから消えるの、離して離してって泣きわめいても、男は表情ひとつ変えなかった。騒ぎに気づいた姐さんたちが階段を駆け上がる足音がして、男は何をおもったか わたしを抱えたまま窓から外へ飛び降りたの。衝撃に備えて目をつむったのに音ひとつ立てずに着地して、空を飛んだような気分になったのがいまでも忘れられないわ。

男はわたしを抱えたまま走って走って、わたしはどこに向かっているのかなんて知る由もなかった。不思議と怖くはなくて、むしろ死ねなかったことへの落胆から はんぶん投げやりな気もちになっていたのかもしれないわね。気がついたら屋根裏のような部屋にいて、男がわたしをじっと見つめてた。そして口を開くなりこう言ったの。あんな低い窓から飛び降りたところで、君はどうせ生きていたよ、ってね。

その男と、わたしはそれから一緒に暮らすようになったの。ひとりで出歩くことは禁じられたし、部屋にいるときに物音を立ててもいけないと言われた。それでも男は毎日食事を運んできて、安全な寝床をわたしにくれたわ。夜になると彼はいつも部屋を抜け出していたけれど、次第にわたしもそんな生活に慣れてきて。彼はたまに、こっそりわたしを外へ連れて行ってくれるようにもなった。もともと山奥の村と花街の置屋しか知らなかったから、初めて見るいろいろなものにそれはそれは目を輝かせたわ。ほんとうに、なにもかもが光っているみたいだった。町の市場の喧騒、色とりどりの着物の雑踏、咲き乱れる花。簪に飴に大道芸。あれは何?あれは?って逐一たずねても、彼はちゃんと答えてくれた。彼が顔色ひとつ変えなくても、意外とひょうきんな性格をしていることもそのころにはわかってきて、わたしは彼を、信頼 しはじめていたのかもしれない。

外に出てみてはじめて、わたしは自分が暮らしている部屋が大きなお城の中にあると知ったの。彼がその城の役人なのかなんなのか、学がなくて予想もできなくて、でも、あまり知ろうともおもえなかった。あまりに彼がすべてだったから。彼がいなければわたしは生きることができない。それがわかっていたから、ぬるま湯みたいなはじめてのしあわせを壊したくなかったから、都合のわるいところには目をつむっていたの。死のうとして出会ったひとなのにね。ふふ、おかしいでしょ。
彼は城のなかではいつも真っ黒な服を着て、頭巾を目深にかぶっていた。笑うことはなかったけれど、怒ることもなかった。それはわたしをひどく安心させたの。変わったところはあるけれどとても博学な男で、尋ねればなんでも教えてくれた。ただ自分からなにかを話してくれることは あまりなかったような気がするわ。でもね、そんな彼がある日教えてくれたことがあるの。

ひさしぶりに外へ連れ出してもらった帰り道、草履の鼻緒が切れてしまったの。困ってしゃがみこんだんだけど、彼は気づかずにどんどん先へ歩いていってしまってね、あわてて呼びとめようとして ふと気づいた。わたしは彼の名前を知らなかったの。そしたら喉がからからになって、どうしようもなく心細くなっていって。どこかが壊れてしまったみたいに、いきなり涙があふれて大声で泣いてしまった。大きな声を出したことはおろか、泣いたこともおもえばすごく久しぶりでね。酔ったように泣き続けていたら、ふわりと身体が浮きあがった。引きかえしてきた彼に背負われたのね。驚いたのと安心したので嗚咽も止んで、彼の着物をにぎりしめた。わたしを背負ってゆっくり歩きながら、彼は相変わらず抑揚のない声で言った。君はまるで赤子だね、泣くことしかできない。たしかにその通りで、でもそれがすごくやるせなくなって、いろいろな感情がないまぜになったまま、わたしは女よ、そう口から勝手に言葉がこぼれた。彼はしばらく考えてから、そっとつぶやいたの。いつの間にこんなに重くなっていたんだい、気づかなかったよ。

「いつまでもこうしておぶってあげるわけにはいかない。鼻緒が切れても足が痛くても、自分で歩かなければいけないよ。君はもう死にたがりの赤子じゃなくて、女なんでしょ」

彼の広い背中ごしに、おおきなおおきな夕日が見えた。このまま彼は沈まない夕日にむかって永遠に歩いてしまうんじゃないかっておもって、わたしはなんだか怖くなった。でもそれでいい、怖くていい、怖くていいから、永遠にわたしを離さないでほしいって、つよく願ってしまった。


ほどなくして、わたしは住まいを移すことになったわ。夜、彼が部屋を抜け出している間に 突然迎えが来て、抵抗する間もなく連れ去られたの。連れて行かれた先で聞けば、わたしがその山間の村で暮らすようにはかったのは彼自身だと言うじゃない、ほんとうに驚いて、なにより二度目の絶望を味わった。ああ、わたしはまた捨てられたのねって。しあわせを掴もうとよくばったりなんかしたから、彼はわたしがきらいになってしまったんだとおもったわ。親よりも憎かったかもしれない、だって、親よりおおきな存在になっていたのだもの。

迎え入れてくれた村のひとたちはとてもやさしかった。近くの城付きの鉄砲隊が暮らしていた場所だったから、その鉄砲隊にいた火縄銃の名手について火薬の調合を必死になって学んだわ。自分の足で歩かなければって、もう誰も信用するもんかって、躍起になっていたのね。ときには実験に失敗して怪我をしてしまうこともあった。頬をすこしやけどしてしまったときに、いつも無口な火縄銃の名手が、女だから顔に怪我はさせるなと言われたのだが、とこぼしたことがあった。そのひとが彼と旧い知りあいだと聞いたのは、それからずいぶんあとのことだったわ。…わたしが彼のやさしさに気づいて許せるようになるのにも、ほんとうに時間がかかってしまったのね。






すこし落ちついたのか、瞼をとじた横顔を見ながら、僕は初めてなまえに出会ったときのことをおもいだしていた。学園を卒業して薬師をしながらたまに忍務の依頼を受ける身となり、火薬を仕入れるために訪れた佐竹村で、たったひとり調合師として働いていた彼女。出会った当初は顔色がわるく どこか陰気な雰囲気をまとっていて敬遠したりもしたけれど、自分に厳しく凛としたところ、そしてたまにのぞかせる弱さに次第に惹かれていった。そんな彼女の昔ばなしを聴くことなんて、これがはじめてだ。僕たちは明日、夫婦になるというのに。


「急に古い話をしたりして、ごめんなさい」
「いいや。話してくれてありがとう」
「…伊作くんはやさしいのね」
「忍に向いてないとはよく言われたものだよ」
「ふふ、そうなの?」
「そうだよ、だって、」


一流の忍者が僕に言ったことだもの。


人生の晴れ舞台であるはずの祝言は明日なのに、どしゃ降りの雨は止む気配もない。こんなところまで不運なのは治りそうもないけれど、せめて僕の手で、きみを精一杯しあわせにするよ。鼻緒が切れても足が痛くてもきみはひとりで歩けるけれど、僕も隣にいるからさ。


110603


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