*こちらの一年後のお話です





いつものひょうひょうとした雰囲気はどこへやら、喜八郎さんの眉間には すこししわさえ寄っていた。


「行きたくない」
「困りましたね」
「…ちっとも困ってないくせに」


ひと月ほど前、家にやってきた食満さんが おおきな出版社のパーティーの招待状を渡そうとするなり、喜八郎さんはお部屋にたてこもってしまった。食満さんと必死になってふすまを開けようとしても無駄な抵抗で、結局食満さんが帰ったあとにひっそり出てきた喜八郎さんは、なまえ私はほんとうにパーティーが嫌いなんだよ とひとことこぼした。

それでもパーティーの日はやってくるわけで、滝夜叉丸さんに借りたスーツ(彼のことなので真っ白とか真っ赤を持ってくるかとおもえば、上品な黒でひと安心しました)を着た喜八郎さんは、嫌々を隠そうともせず玄関に立っていた。


「喜八郎さん、おでかけはすきでしょう」
「ごみごみしたところはいやだよ」
「でも豪華なお料理とか、ケーキとかあるだろうし、わたしは憧れてしまいます」
「私はなまえの作るごはんのほうがずっといいよ」


喜八郎さんのその言葉に、ゆるんでいたネクタイを直してあげようと伸ばした手が、ふ と空をきった。


あ、どうしよう。

不意打ちにじわりじわりと熱がこみあげて、おもわずおおきく視線をそらす。


「照れているの」
「…ちがいます!」


そんなこと、はじめて言われたからびっくりしたのです。


「では、これからごはんにしようよ」


すたすたと居間へ戻ろうとする喜八郎さんの前にまわり、あわててくい止める。いまの彼にはほんとうに、油断も隙もない。


「喜八郎さん、もう行かなきゃ。遅刻しちゃいます」
「……」
「わたし、明日からもちゃんとごはん作りますから。だから今夜だけがんばってきてください」
「…ネクタイ、」


顔をあげると、すぐ上にあった喜八郎さんの 夜の猫のような瞳と視線がからまった。


「直してくれようとしたね」
「え、」
「さっき」


すなおにうなずけば、喜八郎さんはゆっくり身をかがめる。


「直して」
「…はい」


黒い細身のスーツは、喜八郎さんにそれはよくお似合いだ。滝夜叉丸さんのものだけれど。すこし着くずれていた上着をととのえて、さいごにネクタイをしめたら、よし 完璧です。



「喜八郎さん、行ってらっしゃい」


数秒だまりこんだあと、彼はわたしの髪をゆびさきでかきまぜて あきらめたように口をひらいた。


「いってきます」




普段はめったに出番のない革靴を履きながら、喜八郎さんはちいさく言った。


「なまえ、留守をよろしくね」


留守っていっても、ほんの数時間なのに。わかってはいたけれど、振りむきざまの彼に わたしもちゃんと返事をする。


「はい」




いっしょに暮らして一年が経って、喜八郎さんはすこしだけおとなになったかもしれない。わたしも すこしはおとなになれているといいな。毎日まいにち新しくなってゆくなかで、喜八郎さんのごはんを作り、おなじ屋根の下で眠る。それでわたしはうれしくて、喜八郎さんもうれしいといいなって いまはそうおもっている。


とりあえず、あしたの朝ごはんのお買い物にいこう。



110528


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