春風のようなひとだった という言葉にくるんでしまうには、あまりに鮮烈な記憶ばかりだ。静謐な寒さに動かなくなった心をまるごと吹き飛ばしていくような、舞い上がったそれを指さしてわらい転げるような、そういう意味では嵐のほうが似合うひとだった。

わたしに負けず劣らず 勘ちゃんもなかなかのおくびょうものだったとみえて、お互い 考えごとの底の底までさらしあうことができずに、おつきあい(と 呼んでよいのかも よくわからないつながり)は何度も途切れそうになった。

「なまえはなまえだからなあ」

勘ちゃんはたびたびそう言っていた。

「それはどういうこと?」
「そのままの意味。他の名前で呼べないんだよ。きみがこの先どう変わろうと」

その頃よく飲んでいた 紙パックのジュースを片手でぎゅっとつぶして うれしそうにわらった勘ちゃんの、肩の向こうで 夏の夜が白みはじめていた。おだんごに結った後れ毛が、温い風に吹かれてかわいかった。たばこを灰皿に押しつけ ベランダの柵にもたれて、まだ目のさめない街を見ていた、そんな明け方のこと。


たくさんのコミュニティに すこしずつ友だちのいた勘ちゃんは 外で見かけるとたいてい誰かがとなりにいたけれど、真夜中や 真昼間にとうとつに電話をかけてうちにやって来たときには、お留守番に慣れた子どものように過ごしていた。ルームメイトの置きみやげの古いゲーム機をさわっていたり、お仕事なのか はたまた趣味のたぐいなのかわからない資料と向き合っていたり、活躍の機会にあまり恵まれないオーブンで 聞いたことも見たこともないお料理を作っていたり。
動物と暮らせない、そしてルームメイトもいなくなってしまったアパートを もて余していたわたしにとって、のびのびと過ごす勘ちゃんのいる空間は みょうに居心地のよいものだった。
こわごわ合鍵を渡してみると、屈託のない様子でよろこんで、すぐさま よくつけていたネックレスの細い鎖に通していて びっくりしたのをおぼえている。

うちが夜な夜なパーティー会場になってしまったらどうしよう 眠れるかしら、と心配していたのをよそに、勘ちゃんは鍵を手にしてからも 来る前の電話を欠かさなかった。
延々とテトリスをした夜ふけに「せっかくだからこのまま日の出を見に行こうよ」と言ってバイクを取ってきたこともあったし(ちょうど冬至のころで、ありったけの服を着込んだ)、「納期が迫っててさあ」と 発泡スチロールでできたりんごを大量に持ってきて ビニールシートの上でひたすら色を塗っていたこともあった(見かねてすこしお手伝いをしたけれど、そういえば、納品先については ついぞ聞かなかった)。すべてのりんごを塗り終え 床に倒れこむと、勘ちゃんは糸が切れたように笑い出した。

「おれたちアダムとイヴみたい!」
「原罪が200個くらいあるね」
「どっちやりたい?先に食べるほうと、唆されるほう」
「ええ、どっちも唆された人々じゃん」

実は いまでも答えが出ていないんだよ。


あてもなく過ごすのは 間違いなくひとつの光る才能で、それに恵まれなかったとみえるわたしは いつも なにかを どうにかしなければと思案していた。
会社を作ったばかりの友だちに 人手がいると声をかけてもらってからというもの、おうちで過ごす時間はすこしずつ短くなっていった。新しい人も加わって 仕事が育っていく様子を見守るのも だんだん楽しくなってきて、友だちには もう事務所の一室に住んでしまってもいいよ と言われた。
そのころしばらく姿を見せていなかった勘ちゃんに めずらしくこちらから電話をかけて、あのアパートは好き?と聞いた。


「どうして?」
「引越ししようかと思っているの」
「そっか」


さっぱりとそう言って しばしの沈黙があった。
電話のむこうで ひっきりなしに鳥の鳴く声がしていた。勘ちゃんはきっと どこか他の街にいるのだろう。


「新しいお家にも遊びに来る?」
「うん。きっと行くよ」


きっとね。約束にも数えられないような ちいさな予定は、未だ叶えられずにいる。


あの夏の明け方に勘ちゃんが言っていたこと、今ならすこしわかる気がするよ。勘ちゃんは勘ちゃんで、恋人 家族 パートナーのどれでもなく、友だちとはまたすこし違うかたちで わたしの気持ちの切れはしが託されている。
もう何年も経ってしまったというのに、ある日また これから行くねと電話がきても うんうん おいでと言うと思うのだ。

勘ちゃんのまわりはいつもあたたかい風がびゅうびゅうと吹いていて、その無軌道なきらめきや くるくる変わる表情に煽られて楽しくて、わたしの憂鬱なんて吹き飛ばされてしまって、勘ちゃんのまんなかに抱えられている空洞のこと つい忘れてしまっていた。あの頃のわたしは 自分の空洞を見つめることが 精一杯でもあった。

だから次にお引越しするときには 原罪のりんごを300個でも500個でも広げられるようなお家に、
と そこまで考えて、やっぱり違うことに気がつく。

電話をとって 耳に当てる。何回かのコールの後 あの低い声が すこし驚いたようにわたしの名前を呼ぶのを聞いて、ちょっと情けないくらいにくちびるが緩んでゆく。


「ねえねえ、これから行くね」



221227



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