とくに買いものがあったわけではないけれど 喜八郎さんと家具屋さんへ遊びに行った帰り道、どしゃ降りに遭遇してしまった。重たい雲から滴るほどだった大粒の雨が、やがて無視できない数になってきたころ 喜八郎さんはしゃかしゃかした生地のパーカーをぬぐと、あたりまえのようにわたしの頭にかぶせた。あわてて鞄からタオルをとりだし、喜八郎さんにわたす。この雨の前では非力な存在だけれど、せめてもの気もちで。長い指にすんなりとさらわれたちいさなタオルが 喜八郎さんの髪の上におさまり、ざあざあという音に満たされた町を走る。

やっとのおもいで喜八郎さんのマンションにたどりついたときには、シャツはぴたりと身体にはりつき、スカートの裾からはちいさく雨が降っていた。部屋の前で服をしぼり、玄関に入ると同時にバスタオルにつつまれた。よくかわいた厚手のバスタオルはほのかにあたたかくて、喜八郎さんが無造作にうごかすたび 柔軟剤の匂いが漂う。くしゃくしゃにされた猫のような気もちで顔をあげると、おおきな瞳がこちらを覗きこんでいて、ほっとして ちょっとわらってしまった。風呂をたいてるよとうながされ 洗面所のドアをしめようとしたそのとき、なまえ待って、はいプレゼント。ぽん、と放られたものは さっきの家具屋さんでもらった試供品の入浴剤だった。楕円のかたちをした淡いみずいろの入浴剤は すべらかな小石みたいにてのひらにおさまる。窓の外からごろごろという音がしたから、雷を見るのがすきな喜八郎さんは 着がえて窓辺で空を眺めながら、わたしが出てくるのを待つつもりかもしれない。


喜八郎さんの家のお風呂にはいるのは、これが二回目。いっしょにいる時間は短くないはずなのに、意外なほどに少ないのは 喜八郎さんがわたしの部屋へ来ることの方がずっと多いからだろう。奇妙な緊張感に首すじをなでられながら、お風呂場に一歩ふみいれる。きれいにみがかれたタイル すこしはなれたところに置かれたシャンプーとリンス、ひとめで喜八郎さんのお風呂場とわかる いごこちのよい空間だった。湯舟にお湯をためている間に髪を洗い、シャワーのやわらかさにうとうとしそうになりながら、ボディーソープに手をのばす。いびつな形をした白い石鹸は、ちいさくすりへって石鹸皿のうえにぽつんと座っていた。あまくはなく、華やかなわけでもないけれど 植物のように清潔であたたかみのある匂い。それが喜八郎さんの肌と同じだと気づくのにあまり時間はかからず、全身の血がどくどくと駆けめぐるように、そう、はずかしくなった。空気をたっぷりふくんだ泡で身体をあらうと、石鹸はいっそうちいさくなる。

入浴剤の封を切り、バスタブに落とすと しゅわしゅわと広がる音とともにお湯はたちまち白みがかった青へと変わった。身体をしずめて天井を見上げ、ふだん喜八郎さんが浸かっているお風呂にひとりきりであることのふしぎさが、今さらながらしみわたってくる。このお風呂に入りながら、どんなことを考えているのだろう。きょう起こったことや、あしたのこと。お仕事のこととか、ひさしぶりに山登りがしたいとか きれいな穴が掘りたいとか。たまに、たまあに わたしのことを考えたりもしてくれるのかな。ますますはずかしく、しまいにはなさけない気もちにもなってきたので ひっそりと両手で顔をおおった。指の間から、ちょうど さっきの石鹸と目があう。
わずかでも力をこめたら割れてしまいそうに薄い石鹸を、ひとさし指の上に乗せてみる。喜八郎さんの肌を洗いつづけてちいさくなって、それでもまだいい匂いをさせているなんて なんともけなげでかわいい存在だ。ふとおもいたって、さっきまで入浴剤が入っていた袋に石鹸をおさめてみる。こまったな、持って帰れてしまうよ。いや そんな、ひとのおうちのお風呂から石鹸を勝手に持ち出すなんて、いけないひとにもほどがあるのでは。けど、この子かわいいなあ。ひとり終わりのない葛藤に精をだしていると、浴室のドアがすぱんとひらいた。
石鹸もうなかったでしょ、新しいの持ってきたと言いながら お風呂場にぺたぺたと入ってきた喜八郎さんは、空になった石鹸皿の上にあたらしい石鹸を置いた。レアチーズケーキのような白い三角形。さっきまでそこに乗っていたものは、たったいま わたしがびくっとなったせいで、乳白色のお湯の底へとはらはら沈んでいってしまった。あわててバスタブの中を探っても、花びらみたいなちいさなかけらは指さきをかすりもしない。
呆然となるわたしを見て、どうしたの、喜八郎さんが首をかしげる。石鹸を持ち出そうとして、失敗してお湯の中に落としてしまいました なんて言えるわけもなく、ただ身をかたくすることしかできないでいると、バスルームはひりひりとした沈黙でいっぱいになった。
喜八郎さんが一歩、こちらにちかづいた気配がする。おお、よしよし。なにをおもったのか、そんなことを言いながら わたしの頭はぎゅうぎゅうとだきしめられた。着がえたばかりなのに、またぬれてしまうよ。そんな心配をよそに、喜八郎さんはびしょびしょのわたしをなかなか離そうとしない。素肌にふれるカーディガンは、ちょっとだけくすぐったい。ど、どうして。ふりしぼった疑問に、喜八郎さんは なまえがかなしそうな顔をしたから、と当然のことのように答えた。
喜八郎さん、わたし あなたの石鹸をくすねようとしたいけないひとだよ。このさい白状してしまおうか、やめようかまよっていると 搦められていた腕がゆるんだ。あ、雷が終わってしまう。おなかにしみをつくった喜八郎さんは、そうつぶやくと浴室から出てゆく。

ふたたびひとりになった空間で、ふと見た先にはまあたらしく白い三角形がいた。あんなに薄い花びらは、もうお湯の中ですっかり溶けてなくなってしまったことだろう。しっとりとした重みのある石鹸を手にとってみると、さっきのものとおなじ匂いがした。喜八郎さんのお気にいり。喜八郎さんの肌の匂い。今度はとけてしまわぬよう そっと石鹸皿にもどして、わたしはほんのすこしだけさみしい気もちをのこして バスルームをあとにした。


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