*こちらの三か月後のお話です
自由奔放で柔軟だけど、根はまじめでしっかり者。尾浜さんは そんな正反対の要素が微妙なバランスで同居しているひとだとおもっていたけれど 今回の行動ばかりは 自由さに大きくシーソーがかたむいてしまったのかもしれない。
「バックパッカー…?」
「そ。もうこれ以上ないってくらいのタイミングだから、ちょっと行ってくる!」
「え、そんな 急に…」
おろおろとするわたしをよそに、うまれたての太陽みたいに無邪気な笑顔で 尾浜さんは目をきらきらとかがやかせている。そして、すっとわたしの隣に立つと 耳もとでちいさく 昇進おめでとう、とささやいた。
「さて、次期リーダーさんに最後のお願いがあります」
内勤として おなじ厨房で毎日いっしょに働いて数年。たくさんの注意もはげましも、尾浜さんからいただいたものは ぜんぶ必要不可欠だったと こうなってあらためておもい知らされた。そんな信頼できる先輩が、リュックひとつで遠い国へ旅立ってしまうだなんて。さみしさと、これからのしかかってくるであろう責任の重さと、それからやっぱりさみしさに打ちひしがれて 肩をおとしたまま、しんしんと冷えたコインランドリーの角を曲がった。
しずかにしずかに鍵を回し、ドアノブを引くと おそろしいほど夜中だというのに 部屋の空気がふわりとあたたかい。薄明かりのリビングでは、庄ちゃんがマグカップを手にしていた。
「ただいま庄ちゃん、どうしたの」
「ああ、おかえり、なまえ」
どこかぼんやりとした瞳はめずらしくて 身体の奥がざわめく。わたしの分もコーヒーをいれてくれようとしたのだろう、キッチンへ立った彼の背中に コートのままでだきついた。
「…かなしいことでもあった?」
「…庄ちゃんも?」
こちらへ向きなおり、わたしのからだをぎゅうとだきしめて いつもとおなじ声がおりてくる。
「かなしいことではないはずなのに、すこしだけ不安なんだ」
庄ちゃん、わたしもきっと そんな気もちだよ。でも、こうしてよりそっていると いつのまにか安心しているから ふしぎでしかたがない。
その夜は、ソファで毛布にくるまって 庄ちゃんとふたり 熱いコーヒーを飲んだ。仕事を終えた真夜中、からだにいいものではないだろうに しみわたるふかい黒はどこまでもやさしかった。
「あ、来た来た!なまえちゃーん!」
高い天井の下、往来のむこうに おおきく手をふる人影が見えた。となりの庄ちゃんに目配せをしてから、わたしも手をふりかえす。尾浜さんの最後のお願いとは、空港に見送りに来ること それも 庄ちゃんといっしょに、というものだった。
「これが噂の!」
「はじめまして、いつもなまえがお世話になっています」
「あはは、なんかはじめて会った気がしないね、庄ちゃん」
まるでわたしがお店で庄ちゃんの話しかしてないみたいで、あまり否定はできないけれど、はずかしくなって ついうつむいてしまう。
尾浜さんはなぜか うんうんと頷きながら庄ちゃんをながめ、それから肩に手を置いた。
「…うん。庄ちゃんといれば、なまえちゃんはだいじょうぶだ!」
庄ちゃんはまっすぐな目で、しっかりと首をたてに振る。つないだ手に、ぎゅっと力がこもった。
荷物の手続きのゲートへと、ちいさくなっていく尾浜さんの背中を 庄ちゃんはいつまでも見送っていた。
「すてきな先輩だね」
「とてもお世話になっていたの」
「今日、来られてよかった。なまえはこれから、もっとたくさんの仕事をしてたくさんのことを知るんだね」
庄ちゃんに話していないこと、庄ちゃんがわたしに明かしていないこと、いろいろあるはずなのに あまりに自信たっぷりに言われるものだから、わたしはおおきくうなずいた。ぜったいにそうだよ、そうにちがいない。こころからおもえる。庄ちゃんのことばは、いつだってふしぎだ。
視線がつながる。聡明にひらかれた瞳に安心して、どちらからともなく 額がかさなった。
「…なまえ、帰ろうか」
「うん、帰ろう」
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