黄色の冷蔵庫を見かけた。職をうしなった帰り道、リサイクルショップの店頭で。家具や家電が雑然と並ぶなか、あざやかな黄色をした冷蔵庫は 真新しくも見えるようすで ぽつんとたたずんでいた。
おもちゃ箱のなかから宝石をみつけたような心地で立ちどまっていると、かばんに入ったさいごのお給料が、買ってしまえば?と誘惑してくる。七千円、決して買えない値段ではないけれど。
ただいま、と 誰もいない部屋に声は響いた。藤内は今夜も遅いのかなあ。夕飯は食べてくるみたいだけれど、歓迎会の時期だとも言っていたしね。藤内は、宴会があまり得意ではない。
あまっていた野菜をきざんでパスタに入れて、遅めの夕飯にすることにした。あ、ひとりだけど、お酒も飲んでしまおう。一本だけのこっていた缶ビールもつれて、ベランダに座って夕ごはん。
皮肉なことに、今夜は満月だった。せっかくのお月さまを皮肉だなんておもってしまうあたり、すさんでいるのはわたしの方なのだけれど、今日くらいはしかたないって 許してもらえたらな。
学生のころから六年間、働いてたお店が廃業となり 今日をもってわたしはめでたく無職となった。お店がなくなると聞いたときは、せっかく好きだった場所や人をうしなうショックと これからの生活が危うくなるこころ細さが 憤りにまでなろうかというところだったのに、理由がオーナーさんの結婚だったものだから そんな負の感情はひゅっと行き場をなくし、ふわふわとした抜けがらのようなわたしだけがとり残されてしまった。
このことを聞いた藤内は、そうか と小さくうなずいたあと、六年間おつかれさま、と律義に頭をさげた。むかしから藤内の、こういう まじめさがときどきかわいく見えるところがすきで、なのに ありがとう じょうずにわらえなかった。
オーナーさんみたいに、落ちついたおとなの女のひとになってからの結婚て、なんか憧れちゃうよね。でも、これからわたし どうしたらいいのかな?全然わからなくなっちゃった。そんな弱音は、紡げなかった。
月はこうこうとつめたく明るく、遠くの川沿いでは桜が風にちらされて ひらひら光っている。フォークを止めて、それらをながめていたら 肺の底のほうから せりあがってくるものがあった。わかってる。これは、さみしいとか悲しいとかそういうときのあれだよね。涙にかわっちゃうと なかなか止まらなくて、厄介なあれだよね。
とにかく、お水とか飲まなければ。ベランダ履きをぬぎすて、ばたばたとキッチンへ引きかえすと 電気もついていないそこに藤内が立っていたものだから、わたしはいきおいよくすべってしまった。なんともはずかしい。
「なまえ!だいじょうぶ?」
「あ、あ…うん。おかえりなさい」
「…何があったの?」
涙なんておどろきでひっこんでしまったものの、なんとなくまだ目頭が熱かったので ひさしぶりにお酒のんだら気もちわるくなっちゃって、とごまかす。
ほっとしたように笑って、藤内は鞄をおろし、上着をぬいだ。
「なまえはいつでもにぎやかだなぁ」
あんまりにかわいい、こどもみたいな無邪気な笑顔で藤内が言うから、「にぎやかなんかじゃないよ」、声に静かな棘がこもってしまった。お仕事から帰ってきたときは あかるく出迎えるってずっと決めて守ってきたのに。
なにかを察したらしい藤内は、目を伏せ しばし考えこむと キッチンの床にすわった。ぼうっと立っているだけのわたしに目をあわせ、ぽんぽんと隣の床をたたく。
「どうして、ここなの」
「家の中でなまえがいちばんすきな場所だから」
おとなしく 藤内のとなりにすわりこむと、沈黙がおりてくる。苦しくはないけど、どこか気まずい。歓迎会はなかったの?無理やり話を変えるより先に、彼は目を閉じて わたしにもたれる。幅のひろいふたえの瞼に、長い睫毛。お仕事から帰ってきた藤内は、いつもすこしだけ色っぽく見える。
「…藤内さん」
「なに」
「おつかれですか」
「…そうかも」
足の先にそびえる冷蔵庫を、つまさきでつついた。銀色の冷蔵庫は 表面までひんやりしている。よくあるキッチンよろしく、我が家も家電は銀やグレーで統一されている。ここにあの派手な黄色の冷蔵庫がきたら、さぞかし浮くのだろうなあ。今は買える。あさっても、たぶん買える。でも 半年後は?一年後は?あたらしいお仕事は見つかってるのかな。もしかして、藤内頼りの生活になっていたりして。考えたくないけど、藤内とだって どうなっているか そんな確証はどこにもない。ひろいひろい海原を、たよりない木の舟で漂っているような、さみしい波の音は いつも耳の奥で聴こえている。
「藤内、わたしね」
「…うん」
「冷蔵庫がほしい、かも」
お財布のひもはきっちり固めな藤内に、なんてことを言っているんだろう。壊れてもいない冷蔵庫を気分で買いかえてしまうなんて、きっと藤内にとっては ありえないことだ。もはや事件かもしれない。なんてね、とごまかそうと口をひらいたとき 藤内の腕がぐるりと身体にまきついた。
「いいよ」
あっさりと、しかし何らかの確信をもって降りてきた承諾に すくなからずわたしの動きはとまる。
「ほんとに?本当に言ってる?」
「これ、古くなってきててさ」
藤内は立ちあがると、上段の冷凍庫を開ける。
めったに冷凍食品を買わないうちの冷凍庫はすかすかで、氷の袋と保冷剤がいくつか入っていたきりだった。
「ここが取れてるんだ」
プラスチックの仕切り板が、藤内の白い指によってすんなりとはずされた。
ほとんど使わないんだから、そんなとこ取れてたって ぜんぜん困らないのに。
藤内のやさしさに わたしはなんだかいろいろ通りこして、はずかしくなってしまう。
「なまえのことだから、ほしいのがあるんだろ」
「うん、黄色いの」
「黄色かあ」
片手でネクタイをゆるめながら、藤内はくすくすと笑った。
「明るくなるかもしれないね」
やさしさなんて需要と供給の交差点だって、むかし誰かが言っていた。その交差点でいちいちよろこんだり、気づかず通りすぎたりしながら 藤内との日々は進んでゆく。一週間後 黄色い冷蔵庫はキッチンへとやってきて、お世話になった銀色は ひとり暮らしをはじめる数馬にひきとられていった。その帰りにのぞいたポストには、オーナーさんの結婚式の招待状が入っていた。
あざやかな黄色のなかで出番を待つ食材たちは 今日もこころなしか元気そうで、今夜はこれでごはんを作って 藤内といっしょに食べるんだよ。小さな交差点をいくつもいくつもこえて、時間はさみしさや悲しさといっしょに ちいさな奇跡もつれてくる。
外は春で、わたしは お仕事を探しに町へ出る。
130408