※上の続き

母は不思議な人だった。いつも暖かくて優しくて穏やかな人で。我が母ながら理想の母親だった。
たまに、母は一人で散歩に行く。それに気づいたのは私が幼稚園入る頃だった。母は誰ともいないのに、ひどく楽しそうに笑い相槌を打っているように見え、幼心に少し怖かった。

「お母さん、いつも誰と話してるの」

そう切り出したのは私が旦那と結婚することを決めた日。母は驚いたように目を丸くし、父は優しい微笑みを浮かべた。

「お母さんのヒーローとだよ」

答えたのは父だった。母も隣で嬉しそうに頷いた。

「ヒーロー…?」
「そう。みんなには見えないんだけど、空座町をずっと守ってくれてる人がいるの」
「ふぅん…」

普通ならそんな絵空事、笑い飛ばすだろう。それを20歳をとうに超えた私が出来なかったのは、今まで見てきた母の表情の中でどんな時よりも輝いて見えてしまったから。まるで恋する乙女というような母を見て、父も心底幸せそうだったから、浮気者と母を責めることはできなかった(そもそも、男か女かもわからないし)。

「そうね…もし、危ない目に貴女があったとき。きっと彼が守ってくれると思う。なんだかんだで本当に優しい人だから」

そう微笑んだ母の顔を私は忘れられなかった。

私も結婚して、歳を重ねた。父は五年前に静かに息を引き取った。母は本当に父を愛していたんだと思う。それは絶対そうなのに。父が亡くなる少し前、彼が話したことは母の人生だった。
父は母に一目惚れしていた。何年もかけて交際にこぎ着け、そこからプロポーズをして。その際母は喜びとは違う涙を流したという。

「あなたの事は大好きよ、愛してるわ。優しくて素敵で…でも私どうしても、どうしても忘れられない人がいるの」

いつも微笑む母が嗚咽を上げながら泣くから、父もとにかく驚いたと言った。それでも交際を受け入れた時から罪悪感に苛まれていた母を思って父は全てを受け入れたという。というよりは、それでも側にいてくれた母をさらに愛してしまったんだ、と苦笑した彼はとても楽しそうだった。

「僕も大抵馬鹿な男だと思ったんだけど、お前も娘なら分かるだろう、母さんはとてつもなく人を惹き付けるんだ」
「…うん、わかる」

その通りだった。私の両親の周りは常に人が溢れていた。繰り返すようだけど父も母も穏やかな人だった。突出した才能も財もなかったけど、人望は誰よりも厚かった2人だと思う。
そこで父は初めて母のヒーローの存在を聞いたのだという。金髪おカッパで、すらりと細長い指をしていて、いつも微笑みを浮かべている男性だと母は楽しそうに語ったという。

母は私にはその人の話をしなかった、私が出産を迎えるまでは。その時は何故か母がどこか寂しそうに語った。ポツリと漏らした一言が特に印象的で、

「ついに私のほうが老けてしまったのよねぇ」

毎日の水仕事で少しシワが増えた母の手。その時は知らなかったけど、すらりと細長い指をしたヒーローさんに比べれば確かに老けてしまったのだと今になれば思った。

母からそのヒーローさんの話を聞いたのはそれが最後だった。

その母が、寝たきりになったのは二週間前。医者に見せたら、そろそろ…と気まずそうに告げられた。母には伝えてなかったが、なんとなくそれは察していたように見えた。入院を勧められたが母はそれを断固として拒否した、珍しく頑固だと感じたから私もそれを受け入れた。
中庭の大きな木が良く見える部屋で母はゆっくり余生を過ごした。両親がこの家に越してからずっと二人でいた部屋で、父が息を引き取った部屋でもある。

変わった様子もなく、ゆっくり葉が散る秋を楽しんでいるように見えた彼女がある日、独り言を呟いていた。

「…久しぶりですねぇ」

そう、確かに聞こえたのだ。もしかして、と思い入れたお茶を出すことを控え部屋を出た。だって、そう呟いていた母の顔は、結婚を告げたあの日と同じ、心底幸せそうだったから。

*******


「よーォ」

おはようさん、彼は変わらない笑顔でそう言った。もう身体が重たくて、ゆっくり視線を向けた私に、眉を下げた彼がそっと近寄ってきた。

「…久しぶりですねぇ」

それすら伝えるのも一苦労で、それを察したのか、動かんでええと優しく私の頭を撫でた。

「お疲れ様。今までよう頑張ったなぁ」
「えぇ…私にしては、頑張ったと思いますよ」
「あんな小さくて泣き虫だったなまえが、まさか孫の顔を拝むまで生き切るとは思わなかったわぁ」
「しんじさん、それは、…意地悪です」

そう返すと、ぎゅうと手を握られる。久しぶりにあったしんじさんはどこか悲しそうだった。ここ何年かは身体を動かすことが辛くて一人で散歩に行けなかったから、こうして寝てる時や、あるいはあのお化けから襲われそうになった時にしか会えなかった。ゆっくり話すのなんて久しぶりだ。

「お化けは…今日は娘と孫が家にいるんです…どうか…」
「心配せんでええ。今日は仕事で来たんとちゃう。…や、まぁ。仕事っちゃあ仕事か…」

しんじさんが宙に浮いた。もうそれもすっかり慣れた。私が楽に話せるように、仰向けの状態でも向き合えるように気を使ってくれたのだろう、本当に優しい人だと思った。

「なまえ。意地悪してすまんなァ」
「…先程のことならさほど気にしてませんよ…」
「ちゃう。俺がお前の人生を狂わせてしもた。初めてあった日から、ずっと」

額と額が重なる。しんじさんの整った顔が目の前にあるとなんだか若返ったように恥ずかしくなる。改めて不思議な人だなと思いその頬に手を伸ばした。見た目だけなら娘婿とそんなに変わらない年に見える。なんだか泣き出しそうで放っておけない彼の言葉を促すように、どうししたのですか、と呟いた。

「俺に会わんかったら今の旦那と純粋に恋をして、娘や孫に見守られて息を引き取って。普通の人として一生を終えられたんて思う。でもあの日、お前と会って十年目の春に俺はお前が欲しくなってしもてん」
「…しんじさん」
「名前を教えなかったらそれすら封印できたんじゃないかって今になって思うわ。お前が俺の名前を読んでくれる度にお前を手放したくなくなって…でもお前が楽しそう笑う顔が好きで、辞めさせられんと思うてしもた」

初めてしんじさんが泣いたところをみた。うん、と相槌をして彼のペースで言葉を紡ぐのを待つ。しんじさんの手も同じように私の頬に添えられた。

「お前が俺を好いとってくれてるって気づいて、それに甘えて。でもお前は賢い子やから気持ちを封じ込めて、旦那にだけ本心を明かして。そんなお前やからあんなにええ旦那と一緒に慣れたんだと思うわ」
「誉めすぎです、…らしくないですよ」
「ええやろ、たまには」

ぽつんと雨のように涙を流しながらお互いくすりと笑った。反対の手を繋いで、まるで若い恋人のように微笑みを交わす、幸せだと思ってしまう。

「お前だけに、お前だけに罪悪感を背負わせてしもた…幸せを噛み締める度に同じくらい辛い思いをさせてしもて…ごめんなぁ?」
「…やだしんじさん…私は幸せでしたよ」

しんじさんがそうか、と返して今度は私の言葉を待つように、頬に添えていた手で髪をすいた。

「お父さんと、娘や孫。それに家族や友達。いっぱいいっぱい、たくさんの人に愛されて…守られて…こんな私のためなんかに泣いてくれるヒーローさんまでいてくれて…罪悪感を抱えてる私がいたって仕方ないじゃないですか。それ以上の幸せを頂いてるんですから」
「…なまえ、」
「ねぇ、お父さんはね…しんじさんに感謝してるんですって。自分は霊とかおばとか見えないから、それから私のことを守ってくれるしんじさんに…すごく懐の深い人でしょう?そんな人他に居ないんですよ」
「せやなぁ…かなんわぁ、俺なんか」
「だから…どうか会わなかったら良かったって…言わないでください。あなたが居たからこそ私はすごく…幸せな人生を送れたんです…」
「…っ!」

そうか、と彼は呟いた。泣きながら笑うしんじさんもとってもかっこよかった。さすが、私のヒーローですね、そう呟くとしんじさんは得意げに笑った。

「…なまえ」

しんじさんが最後に一つだけキスをした。こんなしわしわなおばあさんにも女性扱いしてくれるなんて、と少し感動していると、彼はそっと刀を取り出した。

「ええ子やから…しばらく目ぇつぶっとき」

それが何を意味するのかは分かっていた。あぁ、なんと幸せな人生だったんだろう。最初から最後まで大好きな人に見守られて息を引き取れるなんて。

「しんじさん…」

段々息をするのも辛くなってきた。なまえ、なまえと何度も呼ぶ必死なしんじさんがぎゅうと繋いだ手に力を込めた。

「私のヒーローでいてくれて…ありがとう…ございました」
「なまえ!」

言われた通りに目を閉じる。部屋に誰かが入る足音と、茶碗の割れる音。それから聞きなれた娘の私の呼ぶ声が聞こえた。

「…ありがとうな」

しんじさんの声が聞こえた。もう頭も動かない…あぁ、幸せだったなぁ。向こうでは、お父さんに会えるかな。


***********


「お母さ…!!」

話声の途中で息遣いが荒くなった母に気づき、慌てて部屋に入る。母は一人ではなかった。母の枕元で金髪の男性が、母の手をしっかり握って泣いていた。思わず言葉を見失う。
あぁ、この人がヒーローさんか。母の死に際というのにひどく冷静な頭がそう理解した。動けなかった。だってそのヒーローさんが、ひどく泣いていたのだから。
私の慌てように察した娘が駆けつける。祖母譲りのくりっとした瞳がそのヒーローさんを捉えたのか、だぁれ?と私に、問いかけた。
ヒーローさんがハッとしてこちらを振り向く。私と娘を順に見遣り、涙を浮かべたままニヤリと笑った。

「内緒や。また今度な」

その刹那姿を消した彼に幼い娘は首を傾かせたが、すぐに大好きな祖母に視線が映る。

「おばあちゃん、寝てるのかなぁ」

私を見上げた純粋無垢そのものと言った目が、無性に母の死を印象づける。娘を抱き上げ母の枕元に向かう。その顔は、あの日と同じ幸せそうな微笑みだった。

「きっとねー、おじいちゃんに会いに行ったのよ」
「そうなんだー」
「それから、素敵なヒーローさんにね」



2018/05/12
遅れたけど平子さんお誕生日おめでとう!!


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