泡沫



ぽこぽこ。

海底から気泡が宝石のように輝きながら、水面へ向かって湧き上がる。


キラキラ差し込む太陽の光は、深い青の空間を優しく、そして暖かく照らしていた。

ゆらゆら揺らめくここは、全ての始まりの場所と言われている場所でもあり、ゆきの生まれた場所でもあった。


ゆきは海で暮らす人魚だ。


遙か昔、人間と人魚は共存していた。しかし、人間による"人魚を食うと不老不死を得る"や"高値で売れる"といった理不尽な噂から乱獲され、人魚の数は減ってしまう。

当然、数が減っていけばいく程人魚の価値は上がっていくわけで、欲深い人間達は卑劣な手を使い、我先にとどんどん人魚達を捕まえていった。


人間達の裏切りと多くの仲間の死に、深く悲しんだ人魚達は人間の前から姿を消した。そしてそのまま二度と、姿を現すことはなくなったのだ。


時は巡り、人魚達、人間達の間でもそんな話はお伽噺として語り継がれるようになった今。


周りの人魚に叱られながらもこっそりと海面へ近づき、ただただ街を眺める事がいつの日からかゆきの習慣となっていた。


確かに人魚と人間の間には相容れない因縁があり、特に人魚の方は人間を嫌っていた。

なのになぜ、ゆきが地上に憧れを抱くようになったのか。


それは幼い頃出会った人間の少年の影響であった。


人魚の中でも良い人魚と悪い人魚がいるように、人間の中でも1人1人、良い人間と悪い人間がいる。

人間全てが悪い人間では無いということを、ゆきはその身をもって体感したのだ。


それはほんの少し昔、まだゆきが小さい頃。

両親を含む人魚仲間達と、浅瀬近くまで遊びに来ていた時のことだった。


ゆき達が暮らす海とは違う珍しい魚達を前に、ゆきは好奇心を抑えらない。

つい夢中になって追いかけて行ってしまう。


幼かったゆきは、全く気がつかなかった。

周りの人魚達とどんどん離れていることに。


そして、どんどん浅瀬に向かっていることに。


ふと気がついた頃には、そこは全く知らない場所だった。

慌てふためき、訳も分からずただひたすら前へ前へとと泳いだその時。


ゆきの体は突然上に引っ張り上げられた。抵抗する暇も無く、それはあっという間に。


初めて味わう浮遊感。

いつも当たり前に体を優しく包んでいた心地よい感覚はなくなり、感じたことのない、さらりとした冷たい感覚をゆきを襲う。


気持ち悪い浮遊感のせいで固く瞑っていた瞳を、薄らと開けた。

網目状の何かが視界を遮っているにもかかわらず、視界に広がる美しい青。

暫くその美しい青に目を奪われていたゆきだったが、更に上に引っ張り上げられる感覚に意識を戻す。

慌ててじたばたと体を動かして抵抗するものの、その抵抗も虚しくただただゆきの体は上へと引っ張り上げられていくのだった。


「た、たすけてッ!誰かッ!!!」

たまらずゆきは、悲鳴に近い叫び声を上げる。


「父さん、船の下から声が聞こえるよ。」

「なに?声・・・?魚が喋るはずがないだろう?とにかく網を上げるぞ。」

「うん、分かったよ。父さん。」


そんなやり取りがゆきの耳へと届く。

地上から聞こえてくる声。

ゆきはようやく理解したのだった。


「(私・・・人間に捕まっちゃった・・・もう、二度と海に帰れない・・・ッ殺されちゃう・・・ッ!)」

理解した途端、ゆきの体は恐怖に震え始める。

耳にたこができるほど聞かされた、お伽噺。

それが頭の中を巡っては消え、巡っては消えを繰り返す。


そしてついに、ゆきの視界がぐるりと反転した。


ドンッという音と共に、ゆきの体は甲板に叩き付けられ「うっ・・・」という呻き声がゆきの口から空気となって漏れた。


「と、父さんっ!!!」

「どうしたブローノ・・・っ!!!こ、これは・・・っ」

誰かが歩み寄る音に、ゆきは痛みに閉じていた目を開く。

そして視界に入ったものは、4本の足。

恐る恐る足から上へと視界を上げると、そこにはゆきを見下ろす2人の人間がいた。


「に、人間っ!!!」

ぶるぶると震える体を自ら抱きしめ、恐怖で揺れる瞳で無理やり睨みつける。


「人魚…か…??本当に実在しているとは、驚いたな…。」

「でもこの子、震えてるよ?…可哀想に。すぐに網を避けてあげるから!」

ゆきと同い年くらいであろう見た目の男の子は、ゆきに近づくとその身を覆う網を手際よく避けてやった。

何も言わず傍に立っているだけの父親であろう男も途中手伝ったおかげもあり、直ぐにゆきの体は自由になる。


しかし、逃げようにも本来優雅に泳ぐためにあるゆきのヒレは歩行に適しておらず、立ち上がるどころか動く事さえままならなかった。

「う、うぅ…。」

更に海から引き上げられた時、甲板で強打した腕もズキリと傷んだ。

ちらりと見ると赤く腫れており、薄らと血も滲んでいる。初めて見る己の血に、ふらりと意識が眩む。


ぐらりと歪む視界に、再び甲板にぶつかるかと思ったゆきだったが、素早く傍にいた男の子が支えてくれたおかげで衝撃はやってこなかった。


「大丈夫!?…腕、怪我してる。ごめんね…痛かったよね?ちょっと待ってて!手当してあげるから!」

そう男の子はゆきに告げると、勢いよく走っていき姿が見えなくなった。


横に寝かされたゆきは、眩しさに目を細めながらもぼんやりと太陽を見つめる。

「(暑い…。太陽の日差しってこんなに暑いのね…。)」

甲板に横たわりながら、ゆきは感動していた。

何もかもが地上は初めてで、人間に出会った恐怖よりも今はその太陽の眩しさに釘漬けになる。


「こんなの、海の中じゃあ知らなかった。」

「そうなんだ。海の中ってどんな感じなの?」

「っ!!」

ぽつりと呟いた独り言に、まさか返事があるとは思わなかったゆきは勢いよく上半身を起こす。


「いたっ!」

「あ、だめだよ急に起き上がったら。」

男の子に支えられながらゆきは再び横になる。直ぐに痛みから解放され安堵の息が漏れる。


「・・・ちょっと痛いだろうけど、大人しくしててね?直ぐ終るから!」

そういうと男の子は、手際よくゆきの腕に包帯を巻いていった。

その男の子の言葉の通り、あっと言う間に手当は完了する。


「その・・・、ありがとう。上手なのね。全然痛くなかった。」

クルクルと使った包帯を片付けている男の子に向かってゆきは話しかけた。

まさか褒められると思っていなかった男の子が今度は驚きで顔をあげる。

「え…っ、いや、そ、そうかな?でも、漁師をしてるとよく怪我するし、それで…だと思う。」

「ふぅん…。君、変わってるのね。人魚を見て、手当しようなんて。人間なのに。」

「当たり前じゃあないか!人間も人魚も関係ないよ!怪我してる人がいれば手当もするし、心配もするもんだろう?」


ゆきの目を見てハッキリと告げる男の子に、心臓がドキリと音を立てる。初めての感覚にゆきは思わず胸を押さえた。

「そう、なの…かしら。」

「そうだよ!…そういえば、名前はなんて言うの?」

まさか人魚ちゃん、なんて呼ぶ訳にもいかないし…と男の子は言う。

人間に名前を教えるなんて…と一瞬躊躇したものの、なぜかこの男の子にならば名前を教えても良いような気がした。

しばらくの沈黙の末、ゆっくりと口を開く。

「…ゆき。」


名前を教えたと同時に、男の子の顔が一瞬にして満面の笑みへと変わった。

「ゆき!ゆきにピッタリの、綺麗な名前だ!よろしく、ゆき!」

嬉しそうにゆきへと右手を差し出す男の子に、反射的に胸を押さえていた手で触れる。

「…君の、名前は?」

ゆきの手を両手で包み込むようにして握りしめる男の子に、おずおずと尋ねた。


「ブローノ!ブローノ ブチャラティだよ!」

「ブローノ…。」

ニコニコと優しい笑みを浮かべ、ブチャラティはゆきを見る。

そして、本当に嬉しそうに言った。

「嬉しいな、こんな可愛い友達が出来るなんて!」

「友達…?私と、ブローノが?」

「?…そうだろ?もう友達じゃあないのか?」


さても不思議そうにブチャラティは首を傾げる。

ゆきはその"友達"という言葉に、胸がくすぐったくなった。と、同時に鼓動が早くなる。ドキドキという鼓動の音がうるさかったが不思議と嫌ではなかった。


「友達…。」

ぽつりと呟くと、再びブチャラティから言葉が返ってくる。

「友達!」

「…うん。ブローノと私は、友達。」

キラキラと輝くブチャラティの笑顔を見て、ゆきはすっかり人間への不信感はなくなっていた。


むしろ、"人間"というよりも、純粋に"ブローノ ブチャラティ"という男に対して、はっきりとした好意を感じていた。


海の中での生活の話、地上での暮らしの話、好きな食べ物、家族の話、将来の夢。

ゆきとブチャラティはたわいもない話で盛り上がる。知らない世界の話は新鮮で、お互いの口から紡がれる言葉が、とてととても貴重で価値のあるものに感じた。

そう感じるくらいに少なくともゆきにとっては、一生忘れることのないであろう思い出となった。


「ブローノ。そろそろお別れをする時間だ。」

不意に、話に花を咲かすゆきとブチャラティの後ろから声がする。2人はその声に導かれるように視線を向けた。

「えっ」

そう声を零したのはどちらだったのか。ブチャラティの父親の耳には届かなかったが、ゆきとブチャラティはお互いの声がしっかりと聞こえていた。

そしてその声が聞こえたことにより、お互いが突然の別れを悲しんでいる事を理解し、より一層胸が締め付けられる。


「人魚のゆきは陸では暮らせないし、人間のブローノは、海では暮らせないだろう?…それにゆきの事を心配している人魚だっているだろう?」

ブチャラティの父親の言葉にゆきとブチャラティは、ハッとした。


海と地上。

どんなに仲良くなっても、一緒に暮らす事は出来ないのだ。

当たり前の事だけれども、その事実が2人の心に重くのしかかる。

それに今回のように、捕まったのがブチャラティのように心優しい人間であれば良いのだが、もちろん次がそうとは限らない。


全ての人間がそうでないとしても、また捕まってしまえば、きっともう二度と故郷には帰れないだろう。


寂しいけれど、お別れなのだ。


「…ブローノ。ありがとう、とても楽しかった!」

「そんな…!せっかく仲良くなれたのに…!」

「私、今日の事、ずっと忘れないよ。もう会えなくてもブローノは私の友達だし、ずっと大好きな"人"だよ。」

「ゆき…。」

「私に素敵な世界を教えてくれてありがとう、ブローノ。」

「ほら、ブローノ。」

ブチャラティは父親に背中を押され、未だ納得のいっていない顔でゆきを見る。

「そんな顔しないでよ、きっと・・・きっとまた会えるよ。ね?」


ゆきはブチャラティのその手へと触れる。

華奢そうに見えたブチャラティの手は、幼くても漁師として誇りを持って仕事をしているからだろう、とても逞しかった。

何も喋らず、辛そうな顔のままゆきを見るブチャラティにそっと微笑むとその手を離す。


そしてそれが合図かのようにブチャラティの父親に抱きかかえられ、ゆきは船の手すりへと腰掛けた。

ゆきの瞳に映る黄昏時の海は、とても美しかった。

オレンジに染まる海面はキラキラと輝きを放ち、暗くなっている空とのコントラストに目を奪われる。

海面に映る夕日に吸い込まれてしまいそうな気がした。


今日の出来事は、ゆきにとって一生忘れることの出来ない、そして人生の転機ともいえるかけがえのないものとなった。


「じゃあ・・・行くね!」

最後にもう一度だけ振り返る。


ゆきとブチャラティの視線が交わって、その姿をしっかりと目に焼き付けた。

そして、決心が鈍らぬうちに海へと飛び込んだ。


ぽこぽこぽこ。

ゆきが飛び込んだことによって出来た気泡は、まるで「お帰りなさい」とでも言っているかの様にその体を包み込む。

「(あぁ、帰ってきたなぁ。)」

数時間しか離れていないのに、その体を包む感覚にひどく懐かしさを覚える。


もう振り向かず、真っ直ぐ泳ぐために自慢の美しいヒレを掻上げる。


「"必ず、また会おうッ!!!!"」


しっかり前を向いて泳ぐゆきの後ろから、ブチャラティの思いっきり張り上げた声が届いた。

ゆきは驚き目を開く。そして、すぐに嬉しそうに微笑み、目を細めた。

「(必ず、また会おう。)」

その決意をひっそりと胸に秘めながら。


そして時は流れる。

あの日と同じ黄昏時。赤と紺の美しいコントラストの空を、20歳へと成長したゆきは海中から見上げ、思いを巡らせていた。

その握りしめている手の中には、液体の入った一つの小瓶が。


ブローノは、元気にしているだろうか。

立派な漁師になれているのだろうか。


会えないほど、会いたくなるのは不思議なものだ。

ゆきはあの日から1日も、ブチャラティの事を思い出さない日はなかった。

思い焦がれ、仕方なかった。尊敬なのか、友情なのか、それとも他の何かなのか。この胸の気持ちの名前すら分からないけれども、確かに毎日思っているのだ。


そして流れていく日々の中で、ついにゆきは逢いに行く方法を見つけてしまった。


人間と人魚が共に暮らしていた御伽噺よりも、はるか昔の御伽噺。


暗い、暗い、気がおかしくなってしまいそうな海の底。

その中でも更に暗い、まさに黒といった表現が正しい洞窟の中。

そこに魔女はいた。


はるか長い時を生きるその魔女は、特別な力を持っていた。魔女に"何か"を捧げれば、1つ願い事を叶えてくれるのだ。


"魔女"なんていう不確かな存在を、周りの人魚達は"ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから"と言って鼻で笑う。

でもはゆき、そんな事は塵も思わなかった。


実際に御伽噺に出てきた人間だって存在しているし、空だって飛んでいる物体も存在する。

海に流れていた本で読んだ、"飛行機"と言う物らしいが。


そんな"ありえない"が存在するこの世界で、不思議な力をもつ"魔女"なんていう存在がいない方が今となっては不思議に思う。


もう何度目かになる溜め息をつきながらゆきは小瓶を目の前に掲げた。


魔女元へ偶然にもたどり着いたゆきは、何もかもを見透かしている魔女からこの小瓶を手渡された。

「お前のその"覚悟"が本物なら、叶えてやろう。」

その一言と共に。


なぜ、たった1度しか会っていないあの男の子のことを思い出すたびに、こんなにも胸を締め付けられるのかは分からない。

なぜ、あの黄昏空をもう1度見たいなんて感じるのかは分からない。分からないが、どうしてももう一度。

夢にまでも見た、自らの足で、立って、ブチャラティの隣であの黄昏空を見たいと思ってしまうのだ。


また会うためには、魔女に"何か"を捧げなければならない。

もしかしたら、この生まれ故郷にはもう二度と帰ってこれないかもしれない。大好きな色とりどりの魚たちも、心癒やされる珊瑚礁にも、ずっと一緒にいる仲間達にも会えなくなるかもしれない。


その時ふいに、あのブチャラティの声が頭を巡った。

「"必ず、また会おう"」


そうだ。あの日、ゆきは確かに決意したのだ。

"必ず、また会う"と。


大好きな故郷を離れてでも、行かなければ。誰に強制されるわけでも、そうしなければいけないわけではないのに、ゆきは、行かなければと思った。


もう一度、小瓶の中身を見る。

どろりとした濃い紫色の液体は不気味に、されどしっかりと小瓶に納められていた。


ごくり。

ゆきの喉が無意識に音を立てる。


「(後悔は・・・しない。例えこれで死んでしまったとしても。少しでも、会える確率があるのならば・・・っ!!!)」


自らの中で答えの決まったゆきは、勢いよく小瓶の蓋を外す。

水中の中であるのに、ポンッと子気味にな音を立てる。そして固く目を瞑り、小瓶を両手で持ち直すと、そのまま口に流し込み一気に飲み込んだ。


その瞬間。


「(熱いッ!!!痛いッ!!!)」

一瞬にして全身が燃えているような、そんな感覚に襲われる。

固く閉じられている目からは、大粒の涙が溢れ出る。ほんの数秒しか経っていない事なのに、ゆきには途方もない時間のように感じられた。


そしてゆきの口からは、空気の泡がゴポゴポという音を立てて吐き出される。慌てていつもの様に息を吸おうとすると、ゆきの肺が海水を拒んだ。


「(苦しい・・・っ)」

呼吸が出来ず、薄れゆく意識の中で自信が吐き出した気泡が一つ。あの日と同じ、黄昏の世界に向かってどんどん上に上がっていく。

思わず差し込むオレンジの泡沫に手を伸ばせば、そのままゆきの意識は完全に途絶えた。


ここはネアポリス。

「ネアポリスを見て死ね」と言われるほど、とても美しい街だ。

そのネアポリスの海岸。

海で遊ぶには季節外れな今は、その海岸には人はおらず寂しそうに見える。

しかしそれは少し前の話で、今はその押し寄せる波に導かれたかのように、1人の"人間"が横たわっていた。


ザザン、ザザン、と何処か落ち着く音が耳をくすぐり、何か冷たい感覚に一気に意識は覚醒し、ぱちりと瞳を開く。


視界に映ったのは、さらさらとした砂。そしてその砂達は、波にさらわれ寄せては返してを忙しなく繰り返していた。

もちろん自分の体も、押し寄せる波によって濡れている。

ゆっくりと上半身を起こせば、ようやく自分が何処にいるのかを理解する事が出来た。


「砂・・・浜・・・?」

視界にかかる邪魔な髪を後ろに掻上げ、何故ここにいるのかを思い出す。

「そうだっ、私、薬を飲んで・・・苦しくなって・・・っ。でも、生きてるの・・・?」


そしていつもと違う下半身の感覚に、視線を向ける。そこにあったのは、自慢の美しいヒレは無く、代わりに2本の立派な足があった。


「えっ!?」

思わず足に触れ、その存在を確認する。柔らかくすべすべとしていて、ヒレとは違う暖かさ。

動かそうとしてみるが、重たくて少ししか動かせない。それもそうだ。ヒレとは全く違う。生まれたての赤子のように、ゆきの今の足には筋力がほぼ無いのだ。


「(これじゃあ足があっても、ブローノには会いに行けない・・・。)」

人魚だった頃と変わらず、立ち上がることの出来ないゆきはうなだれた。


その時、砂浜からザクザクと人が歩いてこちらに向かってきている足音が聞こえてきた。

そしてゆきは、ようやく今の自分の格好に気付くこととなる。

先程はまでは自身の現状の把握でそれどころではなかったが、ゆきは今なにも身につけていないのだ。



「(やばい・・・どうしよう・・・。)」

逃げたい。しかし足を動かせないないゆきは、海に入ることや、ましてはその場から立ち上がることすら出来ない。

どんどん近づいてくる足音に、ただ身を小さくしてやり過ごそうとすることしか出来ないのだった。


不意に足音が止まった。

不思議に思って、少しだけ顔を向けると大きな男のものと分かる足が見えた。

「(終った・・・。)」

そう絶望するゆきの耳に、低く、だけど心底驚いたような、小さく呟く男の声が届いた。


「人魚・・・?」

その呟きにゆきは男の顔を見る。


バチリと交わる視線の先には端正な容姿をした、しかし見覚えのある青年がいた。

「ブローノ・・・?」

気付けばその名前が口から勝手に紡ぎ出されていた。

そして青年も同じく「ゆき・・・?」と、未だ驚きの混じる声でゆきの名前を呼んだ。


ゆっくりブチャラティはゆきの傍へ近づき、砂浜に膝をつくとゆきのその華奢な肩へと触れる。


「君は・・・どうして・・・。海にいるんじゃあないのか・・・その足は…いや、それよりも、」

ゆきの姿の気がついたブチャラティは頬を染めあげ、ゆきから視線を逸らす。

「え、あっ!み、みた!?」

「・・・見てないから、安心してくれ。」」

そう未だブチャラティはほんのり赤い頬のまま、自身の白いスーツの上着を脱いだ。


「あまり意味は無いだろうが・・・これを。」

ふわりと暖かい感触が肩にかけられる。

元々、これでもかという程に胸元が開いているデザインであるが故に、袖を通して着ることは出来ないが、肩にかければ体を隠せれる。

ブチャラティのスーツを胸元で交差させた手でぎゅっと握りしめた。


「ありがとうブローノ。」

「いや、気にするな。…立てるか?」

ブチャラティは立ち上がり、膝についた砂を払うとゆきへと手を差し出す。

少し気まずそうにゆきは視線を逸らし、へらりと笑う。


「ちょっと、無理みたい…。人間って凄いのね。尊敬しちゃう、私ってば全く力が入らなくって…」

「聞きたいことは沢山あるが、いまはその格好をどうにかしないとな。」

「え、きゃあっ!」

そう言ったブチャラティはゆきの膝裏へと手を通し、軽々と持ち上げた。

急な浮遊感と、急接近したブチャラティとの距離にゆきは声を上げた。


「は、恥ずかしい…恥ずかしいよ、ブローノ。」

「そう言われたって…ゆきは歩けないんだろう?頼むから大人しく俺に抱かれててくれ。」

そう困ったように笑うブチャラティに、ゆきは何も言えず黙り込んだ。


が、不意に思い出した懐かしい記憶に笑いを零す。

「ふふふ。」

「…?どうした、ゆき?」

先程まで黙り込んでいたゆきが今度は笑いだし、ブチャラティは首を傾げた。


「ふふ、あのね、ブチャラティが私を持ち上げた時に感じた浮遊感、あれ昔、網にひっかかった時の感覚と同じだったなって思って。」

「あぁ…懐かしいな。俺は、ゆきと出会ったあの日から、ゆきの事を忘れた日なんかなかったぜ。」

「えっ!…わ、私も…よ。」

さらりと言い放ったブチャラティに、ゆきが頬を赤く染める。

嬉しさと恥ずかしさが入り混じる。ゆきだって1度もブチャラティの事を忘れる事はなかった。

同じだったんだ。それが、ただただ嬉しく思う。


そして昔の思い出を懐かしく語り合っていると、1件の家にたどり着く。

海辺からもそう遠くなく、大きくはないけれども、お洒落で立派な造りの家だった。


「凄い、これ…ブチャラティのお家なの?」

そう問いかけるゆきに、ブチャラティは照れ臭そうに笑う。

「あぁ、少し前に買ったんだ。…普段は仕事で街の方にいるんだが、休みの日はこうして海の近いこの家に帰ってくる。また君に会える事を願って、な。」

「ブローノ、それ、本当に…?」

「我ながらなかなか女々しいが…どうやら俺は、そうしてしまうほど、ゆきにもう1度会いたかったみたいだ。」


ブチャラティはゆきを抱えたまま、器用に鍵を何処からか取り出し扉を開ける。

部屋は清潔に保たれており、実際にブチャラティが定期的に来ていることが伺える。

壁には網が飾られており、ゆき目を細めた。


ブチャラティの話ぶりから、きっと漁師になるのは辞めたのだろう。深く追及するつもりもゆきはなく、ただその事実を受け入れた。

部屋に置かれたソファにそっとゆきを座らせると、ブチャラティはクローゼットへと向かう。

しばらくクローゼットと睨めっこをした後、ブチャラティの物であろう大きめのシャツをゆきへと手渡した。


「すまない、こんな服しかおいていないんだ。」

「ううん、大丈夫!ありがとう。」

ブチャラティから服を受け取ったものの、ゆきにはシャツなど着る機会もなく、着方が分からなかった。

服を持ったまま動かないゆきに、不思議に思ったブチャラティが問いかける。

「どうした?」

「あの、服の着方がいまいち分からなくて。着る事なんて海の中じゃあなかったし…。」


ブチャラティは驚いた顔をすると同時に納得する。確かに海の中で服を着るなんて可笑しいよな、と。

実際幼い頃に出会ったゆきも、貝殻で出来たであろう水着の様なものを身に着けていただけだった。


ボタンのとり方や、付け方をブチャラティから教えて貰いゆきは、やっとの事でシャツを着ることが出来た。

「人間って…本当、凄いのね…。」

ひとつため息をつくゆきに、ブチャラティは笑いかける。

「なに、慣れればどうって事ないさ。少しずつ慣れていけばいい。」

「ブローノ…。うん、ありがとう。」


ゆきの座る横にブチャラティはゆっくり腰掛ける。そして膝の上に両肘を置き、前のめりに座りゆきの方へ顔を向けると真剣な顔で話しかけた。


「さて…。そろそろゆきが何故、人間になって俺の前に現れたのか教えて欲しいんだが…教えてくれるか…?」

もちよん断る理由がないゆきは、ブチャラティの問いに静かに頷く。

「うん。きっと、信じられない話だと思うけど…。」

そうしてゆきは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


あの後無事に仲間と会うことができ、帰れた事。

ブチャラティと出会ったあの日が忘れられず、人間の世界に行く事に憧れた事。

たまに地上の様子を見に、海岸の近くまで来ていた事。

魔女に出会い、願い事が叶う薬を貰った事。

そしてそれを飲んだら、痛みと共に意識が遠のき気付けばあの海にいた、と。


「なるほど。その、魔女とかいうヤツが気がかりだな。…スタンド使いか?」

「え…?スタンド使い…?」

聞き慣れない単語に、ゆきは聞き返す。


「いや、何でもない。ただの独り言だ。」

何故そんな海底にスタンド使いがいるのか、ブチャラティの頭にはそんな疑問が浮かんだ。しかし、今はそんなことよりもゆきの今後のことの方が大切だと、頭を振った。


「しかし、驚いたな。人魚が人間になるなんて。そしてゆきがもう一度、俺の前に姿を現してくれるなんて。」

ブチャラティが優しい笑みでゆきを見る。

そして、それにつられるようにゆきもブチャラティを見て微笑んだ。

「本当、不思議よね。・・・人魚であることを辞めてでも、故郷の海に帰れなくても、それでもブローノに会いたいと思ったの。だけど・・・私、その後の事を何も考えてなかったわ。」

微笑みから一転、ゆきは溜め息をつき眉を下げる。


ブチャラティに会う。その目的が達成された今、ようやくゆきは自分の置かれた状況に気付いた。

2本の足を手に入れて人間になったが、歩くことも、立つこともままならない。

ましてや、人間達の"当たり前"な事でさえも何も分からないのだ。


ブチャラティだって、仕事もあれば生活もある。これまで考えてもいなかったが、もしかしたら彼女だっているかもしれない。

目を見張るほど、ブチャラティは美青年へと成長している。きっと街の女の子達は、そんなブチャラティのことを放っておかないだろう。

ブチャラティの事は好きであるが、彼を困らせるような事はしたくないのだ。


でも、人間で頼れる人などブチャラティしかいない。

どうしようもないこの状況はまさに、八方塞がりである。


「ゆきさえ良ければなんだが・・・俺と一緒にこないか?」

頭を抱えるゆきにブチャラティは優しく声を掛ける。


「・・・へ?」

思ってもいないブチャラティの申し出に、ゆきは素っ頓狂な声を上げてしまう。


「俺の職業は、人に誇れるものなんかじゃあないが・・・俺の傍にいてくれればゆきの事を守ってやれる。」

「でも・・・」

「それに・・・俺がゆきと一緒に居たい、なんて言ったら駄目か?・・・ゆきは俺の初恋の人なんだ。そしてその想いは大人になった今だって、一つも変わっちゃあいない。」


ブチャラティはソファから降り、片膝をついてゆきの手を握る。

その姿は、さながらお伽噺に出てくる王子様の様で。

ゆきは突然の出来事に言葉を失い、ただひたすら目をパチクリさせることしか出来なかった。


「こ、恋…?ブローノが、私に…恋??」

「あぁ。恋だ。ゆきが人魚である事を捨ててまで俺に逢いに来てくれたのも、恋なんじゃあないのか?」

真剣な瞳で見つめてくるブチャラティの顔が、恥ずかしくて見ることが出来ないゆきは、顔を赤らめながら俯く。


確かにブチャラティは、初めて会った時からどこか特別な存在だった。もちろん好きだし、どうしても会いたかった。

だけど、それが、恋だったとは。

今まで、愛だの恋だの無縁だったゆきはその気持ちが分からなかった。


しかし、今ブチャラティから告げられた"恋"という言葉が、やけにしっくりと心に落ち着く。


「そっか、私、ブローノに恋してるんだ。」

「あぁ。」

そう言ってブチャラティは微笑むと、ゆきの手に優しいキスを落とす。

そしてそのままゆきを引き寄せると、抱き締めた。

未だ足に力が入らないゆきは、すっぽりとブチャラティの腕の中へと収まる。

少しの恥ずかしさと、それを遥かに上回る幸福感に包まれる。


まだまだ、ゆきには人間として生活していくには困難な壁が沢山あるだろう。

しかし、もう不安はなかった。

ブチャラティという"人"と一緒ならば、どんな事でも乗り越えられる気がする。

暖かな温もりの中で、ゆきは確かにそう思ったのだった。


再び時は流れ、海が人で賑わう季節になった頃。

ゆきとブチャラティは、海辺から近いあの家で寛いでいた。


ブチャラティの懸命な手助けもあり、何とか1人で歩けるようにまで成長したゆきは、いつの間にかすっかり心配性になったブチャラティから、走る事を禁止されていた。

以前走ろうとした際にゆきの足がもつれ、転倒してしまった過去があるからだ。


普段は2人でネアポリスの中心街で暮らしているが、こうしてブチャラティの仕事の合間を見て、この海辺近くの家へと訪れるのだった。

その時はお互い動かず、ゆっくりと過ごすのが恒例なのだ。


ブチャラティは優雅にソファへと座り、紅茶を飲んでいる。

その隣にはソファに座っているものの、真剣な顔つきで机に向き合って何かを書き込んでいるゆきの姿があった。

時に悩ましげにペンを止め、溜め息をつく。

そして、そんなゆきを見かねてブチャラティが声を掛ける。それが、もう何度目かのやり取りとなった頃。


「やっと・・・できた・・・!!」

「よく頑張ったな、ゆき!」

「これもブローノのおかげよ!ありがとうね?」

「いや、俺はなにもしてないさ。これはゆきの実力だぜ。さすが俺のアモーレだ。」


そう言ってブチャラティはゆきの頭を優しく撫でる。

心底嬉しそうにゆきは微笑む。そして頭の上にあるブチャラティの手を両手で包み込み、胸の前に誘導する。


「えへ、ありがとうブローノ。でも、ブローノが提案してくれなかったら書こうなんて全く思わなかったもん。やっぱりブローノのおかげよ。」

「そう・・・か?俺はただ、思ったままをいっただけだが。いや、でもそうだな。俺たち2人で力を合わせたからこそ、出来た作品だ。」

「うん、2人で力を合わせたからこそ・・・」


ゆきとブチャラティは見つめ合う。まるで引き寄せられるかのように、だんだんその距離は近くなり、ゆきが瞳を閉じた瞬間にお互いの唇と唇が触れあった。


お伽噺の人魚姫は、最後に泡となって消えてしまう。

自身の愛を貫き通し、愛するものの為に海の泡となり消えてしまうのだ。

ゆきはそのお伽噺を読んだ際に、悲しさと悔しさ、そして言い表せない虚無感に大粒の涙を流した。

そしてそんなゆきの姿を見て、ブチャラティは言ったのだ。


"それなら、ゆきが幸せな人魚の話を書けば良い。"

ブチャラティのその言葉により、ゆきの涙は止まった。


それからゆきは、歩くための訓練と共に、物語を書き上げていったのだ。そして、ようやく完成したのだ。


"嫌悪する対象の人間に憧れ 人間を愛した人魚姫は 人間になる事を選んだ。運命に抗う事を選び、幸せになる事を選んだのだ。泡沫に消えた人魚姫は、もういない。"


愛する人の幸せを願って身を引く事が幸せなのかもしれない。流れるままに生き、苦しい思いをしない事が幸せかもしれない。

結局、何が幸せなのかは誰にも分からない。


ただひとつ、言える事。それはゆきが今、とても幸せだということだ。

ふと、自分の故郷のことを思い出すことがある。優雅に泳いでいた時が懐かしく思うことがある。

それでも、隣に愛するブチャラティがいるだけで、ゆきは何よりも満たされた気持ちになるのだ。


これからどうなるかは、誰にも分からない。

だからこそ、泡沫のように流れゆく今この時を、大切に生きていかなければならない。

そう、思う。


後にゆきの作った小説は、ネアポリスからイタリア、ヨーロッパ、そして瞬く間に世界中で大ヒットとなる。そして世間はゆきの事を"地上にやってきた人魚"と呼び、今までの不幸せな"人魚姫"のイメージを払拭させたのだ。


そして子のまた子へと、永遠に受け継がれていくお伽噺となっていく。


泡沫
泡沫の様に流れゆくこの時を
貴方と共に生きていくと決めた






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