main | ナノ


「君、神さまはいると思うかい」




冬。2日前から降り続く雪のせいで、寒いというよりむしろ、体が痛いくらいでした。どこもかしこも白銀に染め上げられる様を目にすると、冬枯れの木々にまるで白い花が咲いているようだ、と誰かが言っていたことを思い出したりするのです。


マグカップいっぱいのあたたかい紅茶を飲み込むと、普段より濃い、砂糖の代わりに蜂蜜が入っているそれは、食道をゆっくりと通り胃の中へ落ちてゆき、じわりじわりと私の体を内側から温めていきました。息を吐き出しながら目を閉じ、紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込むと、懐かしさのような、切なさのような、そんな気持ちに一瞬だけれども心臓のあたりをくすぐられました。


そういえばあの時もこんなふうに紅茶を飲んでいたのでした。だけどそれはもう何ヶ月も前に過ぎ去ってしまっていたことで。その時以外の記憶はおぼろになり始めているというのに、ふとした瞬間、例えばベッドの上で読書をしている時や、魔法薬に使う材料を刻んでいる時。そして今みたいに紅茶を飲んでいる時、私はあの日のことを鮮明に思い出すのでした。


そういえば、彼はこの季節が嫌いだといつか言っていた気がします。この寒さや理由も無く沸き起こる喪失感のようなものが嫌いだと彼は言っていました。はて、どうして私はこんなことを知っているのでしょうか。ああ、これを聞いたのもあの日だったのです。私が生きてきた中で一番短くて、だけど彼と過ごした中では一番長いあの時。








「君、神さまはいると思うかい」
「カミ、サマ?」


私が頷くと彼はシュガーポットを持ったまま首を傾げ、私を珍しいものを見るような目で見つめました。右手にはシュガーポット、左手には山盛りの砂糖を乗せたスプーンを持つ彼のその姿が、なんだかとても間抜けに思えました。


「カミサマってあの神さま?」
「それ以外になにがあるというのかね」
「それもそうだ」


彼は何がおもしろいのか小さく微笑みながら3杯目の砂糖を紅茶に入れましたが、それでもまだ飽き足りないのか、彼は再度スプーンで砂糖をこれでもかというくらい掬い上げ、初夏の日差しを浴びてきらきらと、まるで夢のように輝く琥珀色の、もはや紅茶と呼ぶに相応しいのかわからない甘い液体を作り上げました。


彼は至極うれしそうにその液体をゆっくりと味わいながら、うっとりと目を閉じました。彼の私よりもずっときれいで、さらさらとした髪が陽の光を浴びて、輝いていました。さながら、地上に舞い降りた天使のようで。だけど彼の顔や体のいたる所には、それこそ天使には似つかわしくないたくさんの傷跡があることを私は知っていたのです。


こんなにも美しいのに、それなのに、誰よりも傷ついている。いろいろな犠牲の代わりに彼はもしかしたら、私には到底知りえないような何かを得ているのかもしれないけれど、それが人の何倍も甘党だということなのだとしたら、それは考え物だと思いました。


「神さまは、いるよ」


ふいに思い出したように彼は言いました。彼は琥珀色の液体を数瞬見つめ、そして私の目を見ながらもう一度同じ言葉を繰り返しました。彼のその瞳は、あまりにも澄んでいて、それなのに、神さまを信じていると言うその割には、その奥に、何百年何千年かけても私には届かないような暗闇にも似た何かがありました。


「どうしてそう思う」
「いると考えたほうが楽しいじゃないか」
「そういうものかね」
「そういうものだよ」


彼はふふ、と小さく声を漏らしながらチョコレイトがたくさん散りばめられたクッキーを手に取り、サクサクと音を立てながら、まるで子供のような表情でそれを咀嚼しました。なぜだかわからないけれど、その時私は無性にそのチョコレイトのクッキーになりたいと、ほんの一瞬ではあるけれども思ってしまったのです。


「人間ってさ、とても弱いからね」
「だからどこにいるかも知らんものを信じるのかね」
「だけど、それでも救われる」
「それは、救われているつもり、だろう」


私がスコーンに木苺のジャムを塗りながら言うと、彼は傷ついたような表情を一瞬だけ浮かべました。どうして彼がそんな表情をするのかわかりませんでした。ただ、わかりたくなかっただけかもしれないのだけれども。











友に囲まれて、安息の日々を過ごす彼は、だがしかしやはりどこかに影がありましたが、それでもあの初夏の日とは少しずつ、だけれども確実にその暗いものは薄らいでいました。


ある日すれ違った彼は、とてもしわあせそうに笑っていました。私は彼とその友人達とすれ違うその瞬間、俯いていましたが、目線だけ彼に向けると、彼もまた、私を見つめていました。


ああ、そんな目でみないで欲しいと言えたなら、私もどんなにかしあわせでしたでしょうか。彼のその澄んだ瞳は、あの夏の日と変わらないで、かなしくてうつくしいのです。


彼は確かにしあわせなのです。だけれども、その天使のように脆い彼の背中には翼なんてなくて、ただ、かなしくてつらいものがのしかかっていて、彼を食らい尽くそうと舌なめずりをしながら待っているのです。


あの夏の日、私は神さまを信じないと言いましたが、彼がその神さまとやらを信じるのであれば、私も神さまを信じようと思うのです。


ああ、どうか。あなたを信じている彼を、どうかしあわせにしてください。私にしあわせはいりません。だからどうか、あの人をしあわせにしてください、神さま。


(2011)

top