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「待っていてくれなくてよかったのに」


僕を咎める言葉を発しながらも、その声はどこか弾んでいるように思えた。僕をしかるなんて、この人にはできないのだ。むしろ、僕が甲斐甲斐しく帰りを待っていたことに、気をよくしているような気がする。僕の思い込みでなければ、うれしい。


「私が終わるまで、レギュラス暇でしょう?」
「いいえ。図書館で勉強していたから、あっという間です」
「熱心だねえ」
「先輩と違って、真面目ですから」
「否定できないのが悔しい!」


あはは。軽い笑い声が、暮れかけの空に響いた。街灯の明かりが、ちらほらと灯りはじめている。時刻はもう7時を過ぎようとしているけれど、まだ、お互いの顔がはっきりと分かるくらいに明るい。もうすぐ、夏至だ。


「日も長くなったし、わざわざ送ってくれなくたっていいんだよ?レギュラスだって、大変でしょ」
「僕がいいって言うんだから、いいんです」
「そういうものなの?」
「そういうものなんですよ」


ふたりで並んで、いろいろなことを話しながら帰る。先輩は今日、卒論の中途発表だったらしい。昨晩寝る間を惜しんで修正したおかげか、教授に褒めてもらえたと笑った。今日は帰ったら、何もしないですぐに寝たい、と。でも、部屋が汚いから掃除もしたい、と。僕が促す必要もなく、先輩の口からは次々と言葉が飛び出してくる。


この人と出会ったのは、僕がまだ大学に入学して1週間と経たない頃のことで、サークルの勧誘で、この人に声をかけられたのがきっかけだ。今より少し若くて、まだ髪の毛を明るい色に染めていた先輩は、手作りのチラシを僕に差し出して、今と変わらないふにゃっとした笑顔を浮かべていた。


差し出されたチラシには、大きく『茶道サークル』と書いてあって、この人はちょっとおかしい人なのかと思った。どこからどうみても僕が茶道を嗜む人間には見えないだろうに。突拍子もない勧誘にいっそ清清しささえ感じて、僕は誘われるがままサークルに入った。あとでどうして僕を誘ったのかと聞いたら、「和装がとっても似合いそうだったから」と、茶道とは関係のない理由を述べられて、呆れたのを今でも忘れない。


本当は一度顔を出したらあとは幽霊部員になろうと思っていたけれど、何の運命だったのかその日手前を披露したのは、今、隣を歩くこの人だった。しんと静まり返った茶室に、抹茶を点てる音だけが響く。はじめて会ったときのふにゃっとした雰囲気とは打って変わって凛とした佇まいに、目が離せなくなった。この人の隣にいたいと、強く思った。


「コンビニ、寄りませんか?」
「いいけど、なにか買うの?」
「内定決まったでしょう?ケーキでも買ってあげますよ」
「え!なんで知ってるの!?ってか、コンビニケーキがお祝いって、喜んでいいのかちょっとわからないよ!」
「いらないならいいですけど」
「いる!」


目に付いたコンビニに足を踏み入れると、ひんやりとした冷気に心地よく体を包まれた。この間梅雨入りが発表されたけれど、梅雨なんて嘘みたいに毎日ジメジメと暑いから、これはありがたい。先輩も同じことを思ったらしく、「涼しいね」と笑った。


カゴを取って、適当に自分用の飲み物とお菓子を放り込んでから、コンビニのオリジナルスイーツコーナーに向かった。内定が決まったと知ったのは、つい先ほどのことだった。図書館でたまたま出会った同じサークルの先輩が、「まだ私以外知らないと思うよ」と、耳打ちしてくれた。本当はもっとちゃんとしたものを贈るべきなのだろうけれど、誰よりもはやく、この人を祝いたいと思ったから、今はこれでがまんしてもらおう。


「先輩は、ティラミスですよね」
「よく覚えてるね」
「先輩のこと、ずっと見ていますから」
「……ストーカー?」
「よし、ティラミスはいらないですね。わかりました」
「いるいるいる!ごめんって!」


ティラミスを陳列棚に戻してレジに向かうと、ティラミスを持って必死の形相で追いかけられて、あんまり必死だから噴出すと、ぽすっとやわらかく肩を殴られた。こうして他愛のない話をしていると、どちらが年上で、どちらが年下なのか、たまにわからなくなる。


会計を済ませて外にでると、むわっとした空気に体を包まれた。さっきまでの清清しさとは打って変わって、じめじめした空気が鬱陶しい。僕は少し顔を顰めたけれど、隣にいる人は何がうれしいのか、口元に小さく笑みを浮かべていた。


「レギュラス、月が出てきたよ」
「ああ、本当ですね」


先輩が見上げた視線の先には、夜の色と夕空の色が交じり合って、不思議な色の空が広がっていた。濃くなりはじめた夜の気配で、さっきまでの不快感が少しだけ薄らいだ気がする。少し濃くなった空に、ぼんやりとまあるい月が浮かんでいる。この都会では、月はあまり目立たない。


「たごとのつき」
「え?」
「田毎の月。たくさん並んだ田のひとつひとつに、月の姿が映ること。この間のお稽古のときに、私が銘にしていたでしょう?」
「覚えてますよ」


先輩は少し疑うような目を僕に向けてから、ふふふと笑って、ティラミスが入ったビニール袋を大切そうに持って歩きはじめた。田毎の月。たくさん並んだ田のひとつひとつに、月の姿が映ること。幻想的なその情景を、思い浮かべる。田植えをするために水が溜められた田のそれぞれに、明るい月がまあるく、浮かぶ。だけどそれは、物理的にはありえない現象。頭の中だけに広がる、うつくしいその情景。昔の人の感性は、とてもおもしろい。


「先月、就活で地元に帰ったときに、田毎の月を見たの」
「田毎の月は、物理的にはありえないですよ?」
「知ってるよ。でもね、私にとっては、あれは田毎の月よ」


本当は、地元に帰ることを少し迷っていたの。田舎が嫌で、せっかく都会の大学に進学したのに、またここに戻るんだと思うと、どうしても納得できなくて。そんなことを考えていたら面接の前夜に眠れなくて、部屋の窓から外を見たの。まだ、田植えがはじまっていなくて、水が張られているだけの田んぼに、まあるい月が、浮かんでいて。ああ、私はやっぱり、ここが好きなんだなって。ここに帰って来たいって。そう思うと、すうっと気持ちが軽くなったんだ。


「私、地元に帰るよ」


先輩の笑顔が、今は少しだけ、僕にはつらかった。この人は僕を置いて、田毎の月が見えるふるさとに、帰ってしまうのだ。田舎は嫌だと。知り合いばかりで息が詰まると。コンビニがないと。あんなに文句を言っていたふるさとに、この人は帰ってしまう。内定が決まったと知ったとき、そのことには気づいていたけれど、この人の口から改めて言われると、もうそれは変えようのない事実になってしまった。僕はこの都会から、一度も外に出たことがないというのに。


「あんなに文句言っていたのに、帰るんですか」
「この街に4年間住んで、毎日が夏休みみたいで、とっても楽しかった。だけど、やっぱりふるさとが好きなんだって、最近気づいたんだ」
「ティラミスも食べられなくなりますね」
「自分で作ればいいんだよ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだよ」


先輩はビニール袋の中のティラミスを大事そうに見つめて、くっくっくと笑った。ひゅうっと、少し冷たい風が僕たちの間に吹く。先ほどよりも少し、月が高くなっている。昼間はやはり暑いけれど、日暮れの後は、心地よい風が吹く。この時期は夜がいいと、かの有名な人も言っていたのを覚えている。


「私のふるさとではね、この時期は蛙が鳴くんだよ。田植えは終わっていて、苗が育っていて、山も、川も、全部緑なの。月だってもっと明るくて、それなのに星もちゃんと見えるんだ。風も、もっと涼しくて、夏がやってくるにおいがするの」


先輩はうれしそうに笑った。僕は、蛙の鳴き声を聞いたことがない。そんなものを気にしたこともないし、この騒々しい街ではそんなものはかき消されてしまう。緑に染まる世界も、明るい月も、またたく星も、夏のにおいも、僕は知らない。この街にはたくさんのものがあるけれど、僕は知らないことが多過ぎる。


「いつか僕も、田毎の月を見てみたいです」
「来年、私のふるさとにおいで」
「でも、コンビニはないんでしょう?」
「5キロ先にスーパーがある!」
「運転できるんですか?」
「軽トラも運転できるのだよ」
「すごいですね」
「田舎なめんなよ?」


あはは。軽い笑い声が、月が見える空に響いた。あと何度、僕はこうしてこの人と同じ時間を過ごすことができるのだろうか。あと半年。まだ半年。もう半年。長いようで、短い半年。


学生時代は人生の夏休みだと、誰かが言っていた。学生時代は夢のように自由で、毎日がお祭りのようで、なんでもできるような気がする。だけど4年間なんて、長いようで、あっという間だ。夏休みがいつかは終わるように、永遠に学生でいることだって、できないのだ。


「あーあ。私の人生の夏休みが、終わってしまうよ」
「もう1年いますか?」
「魅力的だけど、やめておくよ」


夏休みはとっても楽しいけれど、夏休みが楽しいのはいつか終わりが来るってわかっているからでしょう?永遠に続く夏休みなんて、きっと楽しくなんかないわ。それに、夏休みが終わって新学期になれば、また友達に毎日会える楽しみがある。学生時代は終わってしまうけれど、社会人になるって、ちょっと不安だけど、楽しみだな。


まっすぐ前を見つめるその瞳は、揺ぎ無くて、はじめてこの人の手前を見たときに感じた、凛とした強い意志を感じた。どちらが年上で、どちらが年下だなんて、瞳を見れば誰でも分かるような気がする。僕はまだ、この人のような強さを持っていない。この人のように、強くありたいと、心から思った。


「きっと、会いに行きます。田毎の月を見に、あなたに、会いに行きます」
「うん。待ってるね」


目を閉じると、見たこともないのに、幻想的なその情景が思い浮かんだ。田植えをするために水が溜められた田のそれぞれに、明るい月がまあるく、浮かぶ。だけどそれは、物理的にはありえない現象。頭の中だけに広がる、うつくしいその情景。僕だけの、田毎の月。


小さくて不思議な、だけど強くてやさしいあなたを、好きだと、愛おしいと、心の底から思う。いつかあなたが見た月を、僕もこの目で、見てみたい。叶うのならば、あなたの田毎の月が欠けることなく、いつまでもうつくしく輝いていてほしいと、心から願った。


(2014)

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