『都会のお菓子は最高においしいよ。でも空気はまずい。ゲボマズだよ。』 リーマスからそんなメールが送られてきたのは、1ヶ月ほど前のこと。文字通りなんにもない田舎に住む私に対しての当て付けだと認識して、2日経ってから『勝手に言ってろ。』とだけ返信しておいた。 大学進学を機にこのクソ田舎から都会に行ってしまったリーマス。生活に慣れるまでは何かと忙しいだろうからと、こちらからはあえて何も連絡をしなかったというのに。なるほどヤツは私の心配なんてつゆ知らず、都会にしかないおいしいお菓子を堪能していたらしい。 その時はどうしてか無性にお腹の底からむかむかして、すっかり日が暮れて薄暗い中、カエルがゲコゲコ鳴く田んぼの畔道をひとりで泣きながら歩いた。 ○ 「……なんじゃこりゃ」 見渡す限りの人、人、人。こんな都会に来るなんて、高校の修学旅行以来だ。あの時は仲のいい友人も一緒だからか、楽しいばかりで不安なんてかけらもなかったというのに、今は不安しかない。 一度は来たことがあるし、るるぶだってページがよれよれになるほど読んだ。だから大丈夫だと思っていたのに、新幹線からホームに下り立った瞬間、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまった。 修学旅行以来使っていなかったキャリーに軽く体を預けて、階段を上ったり下りたりする人をぼんやりと眺める。彼らは一体どこへ向かうのだろうか。私と同じように、誰かに会いに行くのだろうか。 しばらくぼーっとしてからようやっと重い足を動かして、人混みにもまれながら階段をどうにか上って、待ち合わせの改札を目指した。 どうにかこうにか改札を見つけた頃にはすっかり人酔いしてしまって、暑さもあって頭がふらふらしていた。重い荷物を引きずりながら改札を抜けると、涼しい顔をしたリーマスが立っていた。 3ヶ月ぶりに見るリーマスは、ほんの少し顔が細くなった以外なにも変わっていなくて、だけどやはり田舎で暮らす私とはどこか違っていて、私のリーマスではなかった。 「遅かったね」 「……人多すぎ」 「これくらい普通だよ」 特に何の感動もなく、私たちは田舎にいた時と同じように短く言葉を交わして歩きはじめた。リーマスが半分ほど中身がなくなったペットボトルを渡してきて、私はそれを戸惑うことなく飲み干した。少しぬるくなりかけた水は、それでも私の気持ちを楽にするには十分だった。 どうやら私が人酔いしていることに気づかれてしまったようだ。リーマスは昔からそういうことだけは目ざとい。ゴミ箱に空のペットボトルを捨てて、少し先を歩くリーマスの背中を追いかける。やっぱりリーマスはリーマスだとわかって、少しだけうれしかった。 ○ 「ほんと空気はゲボマズだね」 ちりりん、と涼しげな風鈴の音は、都会的な内装のアパートには似合わず、なんとも古風で風流な響きだ。節電のために開け放した窓から入ってくる風は、私とリーマスが生まれた田舎のそれとはなにかが違う気がする。 「やっぱり君もそう思う?」 「よくこんなとこにいられるね」 「まあ、住めば都ってやつだよ」 ことん、と軽い音を立ててガラステーブルに蜜豆が並べられた。黒蜜がたっぷりかかったそれは、私がわざわざ田舎から持ってきたものだ。私の田舎には本当に何もないけれども、水と空気はおいしくて、そのおいしい水を活かした水菓子だけは誇れるものなのだ。 ひんやりと冷やされた器を両手で包んで、きれいに盛られた蜜豆をしばらく眺めてからゆっくりと味わった。いつもなら私のことなんて放っておいて甘いものを頬張るリーマスが、今はどうしてか口元に笑みを浮かべて静かに私を見つめるだけだった。 なんだか一気にリーマスが大人になってしまったみたいで、どうしたらいいのかわからなくて、私は黙って蜜豆を口に運び続けた。黒蜜も小豆も寒天も、全部甘くて、おいしくて、これだけが私の味方みたいに思えた。 「食べないの?」 「ん?食べるよ。どうかした?」 「……別に」 「そう」 「うん」 今更ながら、果たして私はリーマスとなにを話せばよいのだろうかと頭をひねった。思えば私たちの間には、すでに共通の話題も、共通の時間も、なにもないのだ。 あの田舎の畔道をリーマスだけが大荷物で歩いて、私はただ見送ることしかできなかったあの日に、もしかしたら、私たちのすべては終わってしまっていたのかもしれない。私が黙り込んで蜜豆を見つめていると、リーマスは蜜豆を口に運んで、ふわりと笑った。 「蜜豆、おいしいね」 「だって、あの田舎の水で作ってるんだから、当たり前じゃない」 「そうだね」 「ねえ、なんで、」 「ん?」 「なんで、ここなの?」 どうしてリーマスは、こんなところを選んだのだろう。空気も水もおいしくなくて、カタカナばっかり使った名前のお菓子がおいしくて、畔道もない、人が多いばかりのこんな場所を、どうして選んだのだろう。私とずっと、なんにもない田舎の畔道を歩いてくれるって、理由もなく信じていたのに。 リーマスは変わっていないけれど、だけどやっぱり、どこか違う。私の知らないリーマスばかりが増えていて、どうしようもなくさみしくて、かなしくて、鼻がツンとした。 「泣いてるの?」 「泣いてない」 「隣に座ってもいい?」 「……やだ」 嫌だって言ったのに、リーマスは私の言葉を無視して隣に座った。いつだってそうだ。リーマスは、私の言葉なんて聞いてくれなくて、いつもひとりでなにもかも決めてしまう。大学のことだって、いよいよ都会に旅立つ3日前に教えられたのだ。いちばん近くにいたはずなのに、ずっと一緒だと思っていたのに、それなのに。 どうして私はリーマスに会いに来てしまったのだろうかと、今になって後悔した。リーマスが田舎からいなくなってすぐに、リーマスに会う、それだけのためにバイトをはじめた。最低賃金しかくれないくせにやたら人使いが荒いバイトは、少しも楽しくなかった。 だけど、それでも、リーマスに会いたかった。リーマスに会うためだけに今日まで頑張ったのに、どうしてこんなにかなしい気持ちにならなくちゃいけないのだろう。 いよいよ涙が溢れてきて、私は必死に嗚咽を漏らさまいと、奥歯を噛みしめて俯いた。リーマスの手がのびてきて、全身に力を入れてぎゅっと目を閉じると、予想していたよりずっと優しく、むしろ恐る恐ると言ったほうがいいくらいそっと、抱きしめられた。 「嫌だって、言ったのに」 「うん」 「ずっと一緒だって、なのに、なんで……」 「ごめんね」 リーマスの、ばか。ばか。ばか。泣きたくなかったのに、笑って一緒に蜜豆を食べれたらよかったのに。ただ、リーマスに会いたかっただけなのに。私が何度も何度も、リーマスのばか、と繰り返すと、そのたびにリーマスはごめんね、と繰り返した。 「リーマスがいないと、さみしくてしかたないよ」 「夏休みになったらすぐに帰るから」 「ほんと?」 「だって、僕もさみしくてたまらないもん」 リーマスが私にこんなことを言うのは、はじめてだ。いつだって駄々をこねるのは私の方で、リーマスは一度だって我が儘を言ったこともない。 「さみしいなら、どうしてこんなところを選んだのよ」 「……だって、」 「だって?」 「はやくおとなになりたいんだ。君と、ずっといられるように」 リーマスは目を伏せて、泣きそうな声で、だけど笑いながら言った。リーマスの頬には、彼が幼い頃についた傷痕が、まだうっすらとそこだけ白く浮き上がっていた。 この傷で、リーマスがどれだけ苦しめられたか。それはいちばん近くにいた私であっても、そのすべてを知ることはできない。彼だけの、彼にしかわからない、苦しみ。 「全部ひとりで決めて、ごめんね。でも、そうしないと、きっと僕はあそこから出られなかった」 「……私も一緒に来たかった」 「君がいなくなったら、みんな悲しいよ」 「私は、リーマスがいなくて、さみしい。かなしい。」 「……ごめんね」 幼い頃からずっと、一緒だったから。大人たちにどんなに反対されても、どんなに否定されても、私たちはずっと一緒だったから。だから、こんなに離れていることははじめてで、リーマスがいない毎日にいまだに馴染めない。 「待ってるから、だから、帰ってきて。きっとよ」 ちりりん。風鈴の音が心地よく鳴り響いた。空気も、風も、あの田舎とは似ても似つかない。それなのにこの音色だけは、あの田舎と同じで。目を閉じると、一滴涙がこぼれた。 誰もあなたの帰りを待っていなくても。どんなにあなたが遠くに行ってしまっても。私はあなたの帰る場所になろう。あの田舎で、あの畦道で、あなたの面影を探しながら、あなたを、待ち続けよう。だから、はやく、帰ってきて。 (2014) |