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ふと、目が覚めた。つい先程まで夢を見ていたはずなのに、目を開けた途端に夢は消え去ってしまい、本当に夢を見ていたのかどうかもわからなくなった。辺りを見渡してみると乳白色の霧が立ちこめていて、投げ出した足の爪先すら霞んで見える。ここは一体、どこなのだろうか。


なにがあったのか、なにひとつ覚えていない。それなのに私の心は、なんの希望も感じず、深く暗く、沈んでいた。もう、なにもかもどうでもよかった。どうしてそう思ってしまうのか、その理由はわからないが、とにかくわたしは絶望している。


わたしは酷く、疲れていた。なにがあってこんなにも疲れているのかは自分でもわからないが、足は重く、立ち上がることはおろか、もう一歩も歩けないような気がする。錆びた歯車が出す不快な音のようなものが耳の奥で鳴り続けていて、その音が響くたびに胸がキリキリと締めつけられ、酷く痛んだ。


この痛みは、喪失だ。なにか、とても大切なものを、わたしはなくしてしまった気がしてならない。それなのに、なくしたものがなんだったのかも、なにかをなくしたということが本当なのかも、わからない。もしかすると、わたしという存在も、わたしがわたしをわたしだと思っているだけで、本当は、わたしという存在は、この世のどこにも、ありはしないのかもしれない。


わからない。なにもかも。自分が何者かということすらわからない。乳白色の霧がわたしを包み込んで、だんだん自分がその中にとけだしている気がする。それでも、身体中にまとわりつく疲弊と、底知れない不安と喪失感だけは、確かに存在していた。


このまま消えてしまうのであれば、それはそれでかまわない。とにかくわたしは、疲れている。そして同時に、絶望していた。わたしの絶望が大きくなるほど、乳白色の霧が深くなった。ああ、わたしはこのまま、死んでしまうのだ。なんの希望も取り戻すことができないまま死んでしまうのは、とてもつらいような気がする。だけど、このままここにとどまるくらいなら、少しでもはやく楽になりたいと思った。


目を閉じようとした、その刹那。ひとすじの光が、彼方からわたしを照らした。あたたかな、ひかり。人はこれを、希望と呼ぶのかもしれない。先程まで辺りに立ちこめていた霧が、まるで嘘だったように、光によって掻き消されてゆく。


いつか昔に、人は死ぬときには光に包まれると聞いたことがある。この光が、その、光なのだろうか。疲労はもう、限界だった。これ以上ここにとどまれば、わたしはきっと、狂ってしまうだろう。はやく。はやく、あの、光に包まれ、永遠の安寧を。


「こんなところで、何をしているのですか」


安らぎは、一瞬にして消え去った。光は、わたしを死へと導くものではなかった。気怠げに上げた視線の先には、杖灯りを灯した、若い男が立っていた。ここにはわたしとこの男しかいないことから、今の問いはわたしにされたものだということは明らかだ。だけど、自分でもここにいる訳がわからないというのに、問われても答えられるはずがない。


「こんなところで何をしているのですか」


男はもう一度、今度は先程よりも語気を強めて言った。わたしのことなんて、放って置いてくれたらいいのに。わたしがここにいることが、彼になんの関係があるというのだ。問いに答えず男をじっと見つめると、男は半歩わたしに近づいてきて、杖灯りでわたしの顔を照らした。


「……っ」
「耳、聞こえていますか?」
「……きこえてる」


どうやら彼は、わたしの耳が聞こえないと思ったらしい。誤解されたままでは面倒だと思い声を出してみたけれど、わたしの口から発せられた声は、ずいぶんと掠れていて、今にも消えてしまいそうなものだった。


「どうしてここにいるのですか」
「……しらない。気がついたらここにいた」
「ここでなにを?」
「……なにも」


杖灯りが、まぶしい。矢継ぎ早に質問をしてくる男は、どこか、焦っているように見えた。こんななにもないところで、なにを焦ることがあるのだろうか。先を急ぐのであれば、わたしのことなんて構わなければいいのに。わたしの疲労は限界だ。目を開け続けることがつらくて、重い瞼を閉じた。


「目を、開けてください」
「……いやだ」
「あなたの名前は?」
「……それが、あなたに、何の関係があるの」
「名前は」
「……うるさい……もう、放っておいて」
「駄目です。あなたの名前を、教えてください」


肩を揺すられ、わたしは目を開けた。思っていたよりもずっと近くにあった男の顔は、焦りのためかこちらから見てもわかるほどに硬く強張っていた。どうしてこの人は、こんなに必死になっているのだろう。わたしと彼は、ここで会うのがはじめてのはずなのに。


「……あなた、だれ」
「僕は、……いや、僕のことはどうでもいいんだ」
「人には問うのに、自分のことは話さないのね」


嫌味を込めて言うと、男はバツが悪いのか唇をきゅっと噛みしめた。ようやく黙った男の顔をまじまじと見つめると、どうやらこの男は、わたしとさほど年は変わらないようだ。それどころかわたしよりも若く青年と呼ぶにはまだはやく、少年と呼んでも差異はないと思えた。


「僕のことが、わかりませんか?」
「だから、聞いているのに」
「……あなたの、名前を教えてください。名前を、」
「ねえ、もう、放って置いて、お願い。……わたし、疲れているの」


ねえ、あなたはだれなの。わたしは、だれなの。本当に、疲れているの。もう、なにも考えたくない。くるしみたくない。ただ、眠っていたい。なにも失いたくない。失いたくない。失いたくない?なにを?わたしは、なにを失いたくないの?わからない。眠い。もう、わからない。


「駄目だ、起きてください。あなたは、ここにいてはいけない」


肩を強く揺さぶられ、無理やり立ち上がらされた。わたしの体はまるで言うことを聞かなくて、少年に体のほとんどを預けなければ、すぐにでも座り込んでしまいそうになった。どうしてこの人は、わたしにこんな酷いことをするのだろう。わたしが、なにをしたというの。


「お願い、ねえ、やめて。わたし、もう、無理なの」
「駄目です。歩いてください。自分の足で。ちゃんと」
「ねえ、ゆるして……わたし、わたし……」


半ば引きずられるようにして歩くわたしは、端から見れば酷く滑稽だろう。小さな子供が駄々をこねるようにいやいやをしても、少年はわたしを歩かせ続ける。足が重い。これ以上歩けないと言っているのに、どうして彼は、わたしを歩かせるのか。わけがわからなくて、おそろしくて、どうしてわたしがこんな目に遭わなければならないのかと思うと、泣きたくなった。


「ねえ、もう、離して……」
「もう少し、もう少しですから。歩いて。歩いてください」
「お願い、もう、ねえ……」
「……さあ、着きました」


永遠に続くのではないかと思われた歩みは、思っていたよりもずっとはやく終わりを告げた。重い瞼を最後の力を振り絞って開くと、目の前に先程までなかったはずの大きな汽車が現れていた。音もなく現れたそれは、知らないはずなのに、どこか、懐かしく思えた。


「……ホグワーツ特急……?」
「これに乗ってください。じきに出発します」
「ねえ、どうして……」
「さあ、はやく」


少年は有無を言わさずわたしを汽車のコンパートメントに押し込めると、自分は汽車には乗らずに、わたしに背を向けて出ていってしまった。今にも崩れ落ちそうな体に鞭を打って、雪崩れ込むようにコンパートメントの椅子に腰掛け、窓の外にいる少年を見つめた。


「ねえ、あなたは、乗らないの?」
「……僕は、行けませんから」
「どうして」
「……ごめんなさい」


少年の声は酷くかなしげで、その顔はとてもくるしげだった。どうしてそんな顔をするのか、わたしにはわからない。だけどどうしてか、彼の隣に行って、大丈夫だと声をかけて、抱きしめてあげたいと思った。知らず、わたしの両の目から涙がこぼれおちていて、頬を伝った。


「……どうして」
「あなたが帰らないと、あの人が、ひとりになってしまう」
「あなただって、ひとりじゃない」
「……僕は、構わないんです。それよりも、あなたに、」


生きていて欲しいんです。少年は、優しげに、わらった。わたしの涙は、止まらなかった。止まるどころか、後から後から溢れ出していて、もう、わたしの力ではどうしようもならないと思った。この涙を、誰か、止めて欲しい。


「お願い。あなたも、一緒に帰ろう」
「いいえ。僕は、このままでいいんです」
「ねえ、どうして?どうし、て……っ」
「……あの人は、あなたがいないと、駄目なんだ。僕は大丈夫だから、あの人のそばに、いてあげてください」
「っ……」


嗚咽を抑えることが、どうしてできるだろうか。優しい眼差しでわたしを見つめる少年の、なんと神々しいことか。杖灯りに照らされたその顔は、ひどく穏やかで、まるで、わたしの犯したすべての罪を、許してくれているようだった。


黒い髪が、揺れる。乳白色の霧が、少年を包みはじめた。わたしの涙は、それでもなお、流れ続けた。わたしと、少年は、汽車が動き始めるその瞬間まで、見つめ合い続けた。同じ、灰色の瞳。言葉など、もう、必要なかった。ああ、ねえ、あなたは、わたしの……。







ふと、目が覚めた。どうやら相当長い時間眠っていたらしく、目が霞んでなかなか辺りの様子を伺うことができない。ツン、とした消毒液の匂いがすることから、ここは、病室か、ホグワーツの医務室なのだろうと、ぼんやりとした頭の片隅で考えた。


身体中が、痛い。痛む腕を叱咤して自分の頬に触れると、そこは、涙でしっとりと濡れていた。ああ、どうやら私は、泣きながら眠っていたようだ。痛みを感じるということは、私は、生きているということだ。


「……っ、し、り、うす……」


最初に思い浮かんだ名前を呼ぶと、床に跪いてベッド脇で項垂れていたシリウスは私のか細く掠れた声にも敏感に反応して、こちらが驚くほどのはやさで顔を上げ、私の顔をのぞき込んだ。いつも身綺麗にしている彼のこんなに憔悴した顔を見るのははじめてだ。なんだかおかしくて笑ってしまうと、シリウスは途端に大粒の涙を流しながら私に抱きついた。


「っ、しり、う、す……いた、い……」
「お前っ……なに考えてるんだよ……!」
「だっ、て……わた、し……」


そうだ。私は、自分の意志で、自分の生を終わらせようと、ホグワーツの上から身を投げたのだ。なにもかもがくるしかった。かなしかった。生きていたくなかった。大切なものが欠けてしまった世界で、どうしていままで通りに生きていられるだろう。だから、死のうとしたのに。それなのに、生きているなんて。


「わた、し……いきて、る……」
「ああ、そうだよ。生きてる。お前は、生きてる」
「なん、で……?わたし、しにたかった、のに……」


私が本音を漏らすと、シリウスは勢いよく顔を上げて私の顔をおそろしいものを見るような目で見つめた。その瞳に浮かんでいるのは、絶望だ。シリウスの端正な顔は、かわいそうなくらいにやつれていて、ああ、私はなんてことを言ってしまったのかと今更後悔した。


「なんで、そんなこと言うんだよ……」
「シリウス……」
「なんで、そんな……お前までいなくなったら、」


おれは、どうやって生きたらいいんだよ。まるで迷子になった子供のように、シリウスは声をあげて泣いた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙は、私の頬に落ちて、私の涙と混ざり合いながら落ちていった。私の目からもいつの間にか涙が流れていて、シリウスとふたり、声をあげて泣いた。


「シリウス、シリウス……」


痛みなんて、どうでもよかった。私は軋む体を起こして、大丈夫だと声をかけながら、シリウスを抱きしめた。私が何度も、大丈夫、大丈夫、と言うと、シリウスは私の背中に震える腕を回して、縋るように抱きついた。私と同じ黒い髪を撫でると、涙で濡れた灰色の瞳が、私を見つめた。


「大丈夫、私は、生きているから」


私はきっと、これからも生きていくのだろう。シリウスと、ふたり。シリウスの体を強く抱きしめると、思っていたよりもずっと細くやつれていて、自分がしてしまったことの罪深さを、思い知った。どうしてこの人を、ひとりにできるだろうか。


本当は、あの子にも、こうしてあげたかった。大丈夫と声をかけて、抱きしめてあげたかった。私の手で、まもってあげたかった。同じように、生きていたかった。死してなお、私を、守ってくれた、あの子。大切な、あの子。この世のどこにも、もういない、あの子。私の、大切な、弟。


(2014)

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