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「別れて、欲しいの」


唐突に、何の前触れもなく、彼女に告げられた。昨日まで、別れの予感なんて微塵も感じさせなかったというのに。理由はなんだ。僕に非があったのか。考えを巡らしてみても、自分に思い当たる節はなくて、うまく言葉が出てこない。


「何故……?」
「私、レギュラス、が……」


彼女は理由を話したくないのか、僕と目を合わせようとはしないで、ひたすらに自分のつま先の辺りを見つめていた。答えの先を促すと、視線を右に左に彷徨わせた後、彼女はぎゅっとスカートの裾を皺ができるくらいに握り締めながら、蚊の鳴くような声で言った。


「好き、だから」
「…………は?」


普通、別れ話なんてものは相手に嫌気が差した時だとか、止むを得ない事情がある時に切り出されるものではないのだろうか。僕は混乱と、理解できない彼女の言葉に舌打ちをしたいような、なんとも言えないモヤモヤした気持ちになった。


「好きなのに別れたいんですか、あなたは」
「ご、ごめんなさい……」
「そんなことがまかり通るとでも思っているんですか」
「ごめ、ごめんなさ、っあ、っ!?」


目も合わせずただ謝罪の言葉だけを紡ぐ彼女の、あまりにも軟弱な姿に僕の理性の枷が外れて、僕は無意識のうちに彼女の細い髪を無造作に掴んで無理矢理顔を上げさせた。


「僕はそんな言葉が欲しいんじゃない」
「っ、や、いたい」


苦痛に歪む、彼女の、カオ。そうだ。僕はこれを求めていたんだと、どうしてだか、やけにすんなりと納得してしまった。僕を見上げる彼女の瞳は、好戦的で、だけどどこか従順で。かなしんでいるようにも、よろこんでいるようにも見えて、自分の口角が上がるのを自制することができなかった。


「本当の理由は?他にもあるのでしょう?」
「っ……くぅっ……」
「ほら、早く言わないとずっとこのままですよ。あなたの綺麗な髪が抜けてもいいんですか?」
「ぁ……」
「なに?聞こえない」
「……レギュラス、が」


瞳をあわせて、息を吸って、時間が止まった気がした。まるで、この世に僕と彼女のふたりだけになってしまったかのように、僕たちは見つめ合った。この夢のような沈黙を破ったのは、彼女の、呪いのような言葉だった。


「レギュラスが、好きすぎて、ころしたいの」


彼女は苦痛と恍惚と侮蔑と慈悲と快楽と嘲笑をない交ぜにして、そのどれにも当てはまって、だけどそのどれとも違うカオをしていた。僕から一瞬も目を逸らさず、記憶にも、心にも、自分の存在を刻みつけるように言葉を紡ぎ続けた。


「レギュラスのことが好きすぎて、愛しすぎて、ころしたいの。その綺麗な顔につうって真っ赤な血がね、流れるのを見たいの。ねぇ、首を、首をね、私が、私の手で首を押さえたら、どうなるの?ねぇ、レギュラス、好きなの、愛してるの、だから、だからだからだから」


彼女はとり憑かれたように笑いながら、その瞳に確かな愛情と、それを上回る狂気とを滲ませて僕を見つめ、僕の髪を掴んだ。チクリとした小さな痛みに顔を歪めると、その顔を見て彼女は小さく笑った。笑っているけれど、僕の髪を掴む手は、小刻みに震えていた。


「だけどね、ころしたいけど、殺したくないの。だから、ね、さよならしよう?」


そう言った途端、彼女は大粒の涙を流しながら、その顔を美しく歪めた。泣いているのに、それでも僕の髪を掴む手を離さないまま、僕を見つめ続けた。止めどなく流れる涙は、僕を責めているようにも、自分自身を責めているようにも思えて、そんな彼女をいじらしく思った。


「……馬鹿ですね」
「っあ……!」
「別れる以外にも方法はあるでしょう?」
「そんなの、」
「……あなたが僕をころすなら」


僕があなたをころしましょう。彼女の髪を掴んだ手に力を込めて、やけに落ち着いた声で言いながらやんわりと笑むと、彼女は事を理解できなかったのか一瞬すべての動きを止めて僕を見つめ、そして、笑った。


「ああ、レギュラス……」


彼女は恍惚の笑みを浮かべながら僕の頬を撫で、そして僕の首にその細い指を絡めて、決まりごとのように僕を押し倒した。僕は彼女の髪を思い切り引っ張って、生糸のようなそれを抜き取り、そして容赦なく頬を叩いた。


「あなたにころしてもらえるなら、私、私、死んでもかまわない」
「あなたをころすのは僕だ」
「レギュラスをころすのは、私」


ふふふ。ふたりで笑いながら、それぞれの首に指を絡ませて、すこぉしだけ、力を込めた。苦しかった。息ができなかった。だけど、だけど。


「きもちイイね」


彼女も、僕も、笑ってた。ふたりだけの、夢のようなセカイのおとずれと、この小さく醜くうつくしい女への愛を感じながら、彼女の首に絡ませた指に、力を込めた。


(2010)

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