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「……あんた、何なのよ」


できるだけ低く。冷たく。地を這う様な声で唸った。シリウスと、その下で半裸状態になっている女は、かたや焦りを滲ませ、かたや口元を歪めて、私を見つめた。


「あんた、何。」


もう一度問い掛けると、女はばっと飛び起き、身なりを整えないまま私の横をいそいそと擦り抜け、嫌に鼻に付く不愉快な甘ったるいにおいを残して消えた。


そのにおいに鼻を鳴らし眉を寄せると、何を思ったのかシリウスはベッドから降りてきて、私を抱き締めた。


「ごめん」


何度目だ。馬鹿野郎。毒づきたい気持ちをどうにか抑えるために唇を噛んで、鉄くさい血の味を飲み込んだ。


厭らしくはだけたシャツの隙間から頬に触れるのは、シリウスの肌なのに、包まれたにおいは、全然知らなくて。気持ち悪かった。


さっきのあの女のにおいを私に移して、私を代わりにするつもりなのかとか、あの不愉快なにおいが自分からも漂うのなら、石鹸で洗いすぎて肌が荒れたほうがどれだけしあわせだろうかとか、そんなことを思った。


「何なのよ、あれ」
「だって、最近お前が相手してくれないから、」


仕方ないだろ。言いながら、私を抱き締める力を強めた。背骨がこきんと、軽い音を立てて軋んだ。


「私が悪いの?」


問い掛けると、シリウスはゆっくりと頷いた。胸に顔を押しつけられているから見えないけど、そんな気がした。きっと、彼の口元には、笑みが浮かんでいる。


「俺は、お前が好きだ。だけど、足りないんだよ」


解放されて、ほとんど無理矢理目を合わせられた。シリウスの灰色の瞳は、薄暗がりの中でも光っていて、だけど何よりも汚く淀んでいて、きれいだった。


「だからって、何であんな悪趣味な香水のにおい撒き散らす女なのよ」
「……足りないん」


ぷちん。どこかで何かが切れる音がして、気が付いたら私はシリウスを殴っていた。変なところで言葉が途切れたと思たら、私の拳はシリウスの顔面に真っ直ぐ当たっていた。


「何が足りないのよ」
「分かんね、」


もう一発。今度はちゃんと意志を持って殴ると、シリウスは衝撃で倒れた。鼻から血を垂れ流し小さく呻きながら不様に私を見上げるシリウスが憎くて、滑稽で。粘度の高いべたべたした汚い感情のままに、シリウスを見下げた。


「何なのよ何なのよ何なのよ何なのよ何なのよ」


罵倒して、馬乗りになって、綺麗に整った顔を何度も叩いた。私が荒れ狂うのに、シリウスは鼻血を流しながら、恍惚とした表情を浮かべてそれを受け入れた。笑いながらシリウスは、何度もごめんと呟いた。ひとつ謝るごとに一度、私は彼を殴った。


「ごめ、んっ……は、っ」


シリウスは新正の変態なのか、私に殴られる度に湿っぽい息を吐き出して、まるで「もっと」と懇願するような眼差しを向けた。


「変態じゃないの」
「そうかもな」


指を彼の首に絡めて、蔑んだ目付きで言った。シリウスは笑いながら、私の指を外すでもなく、私を見上げるだけだった。


ぐっと力を込めると、苦しそうに眉を寄せた。だけどやっぱり口元には笑みを讃えて、そう、簡単に言うならば、気持ちよさそうに、シリウスは唸った。


手を離すと、軽く咳き込んだけれど、やはり嬉しそうに口元を歪めて、私を見つめた。


「足りないって、何なのよ」
「っ……俺、こういうのすげーすき。ぞくぞくする」
「変態。ちゃんと答えて」
「お前に殴られるとコーフンするんだよ。すげーきもちいい」


シリウスは熱に浮かされた病人みたいに熱い息遣いをしていて、ああ、こいつは本当にダメだな、と思った。


「お前に殴られたいから、だから好きでもない女を誘ったんだ」
「……馬鹿」


鼻血でベタベタに汚れた顔で、シリウスは笑った。汚くて惨めで厭らしくて。だけど何よりも純粋に見えた。


その顔を撫でて、私はシリウスに口付けた。血の味が広がって不愉快だったけど、あの香水よりはずっとマシだった。絡み合わせて、溶かしだして、溺れるように、酸素を奪いあった。


「っ、は……俺、ヤバイかも」


シリウスは浅く息を吐き出しながら懇願した。だけど私はそれを無視してネクタイを引っ張って、シリウスの耳に囁いた。


「今度やったら、殺すかも」


絡み取られて、シリウスが私の上で、笑った。


「それ、サイコー」


血の味のキスが、どこまでも深い谷底に落ちるような交わりの始まりを、告げた。


(2010)

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