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蜂蜜の瓶を抱えて、私は雪道を歩く。吐き出す息が白く色付くほどに、寒い。世界は今、音もなく降り積もる雪に染められ、ただひとり、私だけが生きているようだ。私の後には足跡が点々と続いているけれど、それもそのうちわからなくなるのだろう。


積もったばかりの雪を踏むと、私の中から何かがこぼれ落ちていった気がした。一歩、一歩、歩みを進めるごとに、私の中の何かはこぼれ落ち、足跡と共に雪に埋もれていった。そのこぼれ落ちたなにかの正体がわからなくて、もどかしかった。


空を見上げると、次から次へと雪が舞い降りていた。私の頬に落ちたひとひらの雪は、じわりと溶けて流れ落ちていった。無性に泣きたくなって、なにがかなしいのかもわからないまま、私は声を出さずに泣いた。


泣きながら、それでも私は歩き続ける。はやく、帰らなくちゃ。涙を拭うのも億劫に思えて、理由のわからない涙を流しながら歩く。どうしてこんなにも、さみしいのだろう。蜂蜜の瓶を抱きしめてみても、なにも変わりはしなかった。









「ただいま」
「おかえり。遅かったね」
「歩いて帰ってきたから」
「こんなに寒いのに?」
「うん」


リーマスは少し驚いた顔をして、それからすぐに私が抱えている蜂蜜の瓶に視線を移した。ランプの光に照らされたそれは、まるで宝石かなにかのようにきらめいた。満月が近いために顔色が悪いリーマスは、それでもうれしそうに笑ってくれた。


「ねえ、鼻が真っ赤だよ」
「寒かったからね」
「泣いてたの?」
「まさか。雪が目に入っただけよ」
「そう」
「紅茶、いれるね」


私の誤魔化しも嘘も、リーマスには無意味だということくらいわかっている。だけど、彼にだけは泣いたことを知られたくなかった。キッチンに向かう途中リーマスをふり返ると、その背中は思っていたよりもずっと頼りなく、思わず私は立ち尽くしてしまった。


ごとりと重い音と共に、蜂蜜の瓶が床に落ちた。分厚い硝子のお陰で瓶が割れて中身が零れることはなかったけれど、その音に驚いたリーマスがぱっとこちらをふり返った。顔を見られたくなくて駆け寄って抱きつくと、あまりにも優しすぎる抱擁が返ってきた。


「……やっぱり、泣いてたんだね」
「違う」
「君は、変わらないね」


ねえ、いつからそんなかなしそうな声で話すようになったの。まるでなにもかも戻ってこないような、なくしてしまったような、そんな、声で。かなしくて、くるしくて、喉の奥から獣が鳴くような泣き声が漏れた。噛みしめた奥歯がギリギリと音をたてて、痛くてたまらなかった。


私からこぼれ落ちていったものの正体が、なんとなくわかった気がした。私が歩みを進める度に、もう戻らないあの日々の思い出がこぼれて消えてしまったのだ。とまっていたい、忘れたくない、このままでいたい、そう思う私の願いとは裏腹に、私とリーマスは時計の針と共に先へ先へと進んでゆく。


こんなにかなしくて、さみしくて、つらいことがあるだろうか。残された私たちはふたりきりで、まるで箱庭のようなこの家で、同じ傷を背負って、同じ孤独を抱えて、知らず知らず慰め合いながら生きているなんて。


「リーマス」
「うん」
「帰ってきてね、ちゃんと」
「君も、ね」


私たちがなくしたものはあまりにも多すぎて、ふたりで寄り添ってもその隙間を埋めることなんてできるはずがない。それでも離れられないのは、このぬくもりが臆病な私たちには丁度良くて、だからなおさら、ふたりでいるのにさみしかった。


(2012)

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