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「人間って、かなしいね」
「は?……いきなり何だよ」


グリフィンドール男子寮のシリウスたちの部屋に、私が押し掛けたのは小一時間ほど前のこと。ジェームズたちは気を利かせて今はここにはいない。それをいいことに私はシリウスを追いやって、彼のベッドをひとりで独占して悠々と寛いでいた。


そんな時にふと浮かんだ言葉を、なんの気なしに呟いたつもりだったのにふたりきりの部屋ではやけに響いて、シリウスの耳にも届いてしまった。シリウスが訝しげな表情で私に視線を投げ掛けるから、別にシリウスに何かを話すつもりはなかったけれど、特に何もすることもないので、少し、シリウスと話をすることにした。


「人間ってさ、かなしいよね」
「いや、だから、それを訊いてるんだけど」
「うん。そうだね」


私がちぐはぐな答えを返すと、シリウスはあからさまに溜め息をつきながら、降参したとでも言うように両手を振った。少し離れて椅子に腰掛けたシリウスは、この1年でずいぶんと大人びたように思う。それなのに襟足だけはくるりと跳ねていて、そこだけは幼い頃と変わらない。


「最後まで聴いてやるから、ちゃんと話せよ」
「えー。めんどくさい」
「おま……」


いつだってシリウスは、私に問いかける。どうして?なぜ?と、無垢で無知な彼は、幼い頃からそうやって、私に答えを求める。シリウス。シリウス。ばかなシリウス。なんにもわかんないシリウス。だから、仕方ないから、教えてあげる。


「かなしいのはね、」


私が再び口を開くと、俯き気味だったシリウスは顔を上げて、私と同じで、でも違う灰色の瞳で、私を見つめた。まだ年端もいかない頃から、それまでどうしても顔を上げなかったとしても、私が答えを示すときだけシリウスは必ずこうして私を見つめる。変わらない。なにも。ただひとつを除いて。


「かなしいのはね、人間ってどの動物よりも知識も能力もあるでしょう?なのにね、死ぬことだけは、絶対決まっているの」
「まあ、生きてるヤツはいつか死ぬからな。……え、もしかしてお前、不死身になりたいの?」
「そんな訳ないわよ」
「じゃあ、なに?」


シリウスは私が体を預けているベッドに近づいてきて、床に座ったままベッドの縁に顎を乗せて私と視線を合わせた。まるで主人に仕える犬みたいだなと思うとおかしくて、真っ黒な髪の毛を撫でると、気持ちいいのかシリウスはかすかに目を細めながら私の言葉に耳を傾けた。


「私はね、どんなに親しい人でも、死んでしまったら忘れてしまうことが、かなしい」
「……うん」
「忘れない。忘れない、って、思ってもね、時計の針が進むごとに、それまで覚えていたことが、ひとつずつ、消えてしまうの」


忘れないと誓った。全部覚えていようと決めた。なのに、それなのに。覚えていたはずの声がわからなくなって、覚えていたはずの笑顔がわからなくなって、だんだんなにが本当のことで、なにが自分が作り上げた虚像なのか、それすらもわからなくなる。


「そうやって、忘れてしまって、非日常が日常になって、いつか自分が忘れたということも忘れてしまうの」


シリウスの髪を撫でながら淡々と話すと、シリウスはかなしそうな、くるしそうな、そんな瞳で私を見つめた。大丈夫、という意味を込めて笑ってみたけど、うまくいった気はしない。そういえば、もう、ずいぶんと笑っていない気がする。


「私自身がそんなふうに、死んでしまった人を忘れるのに、私は私が死んでも忘れられたくないって思ってしまうの」


人の死は、一度ではない。物理的な死と精神的な死のふたつある。はじめに物理的な死によってこの世から消える。しかし、家族や友人といった生きた人達に忘れられない限り、物理的には死んでいても、心の中で生きている。だけど、その生きている人もいずれは死者を忘れたり、本人達も死者になる。その時、精神的な死が訪れ、死者は完全なる死者になる。


「忘れられるのが、こわい。私は忘れるのに、だけど、こわい」


そう私が言うと、シリウスは私の手を掴んでぎゅっと握り締めながら、大真面目な顔をした。最後にシリウスと手を繋いでから、もう1年が過ぎたのだ。あの時は確か、私は泣いていた。シリウスだって同じ筈なのに、彼は泣いていなかった。だけど私の手を掴む彼の手は、ひどくつめたくて、震えていたことを覚えている。


「俺が、いや、……俺は忘れない。お前が死んでも、絶対、忘れたりしない」
「……。お前は俺の心の中で生きてる!ってやつかね駄犬くん」
「駄けっ、ちょ、おま、」


ぺいっとシリウスに掴まれた手を解くと、案外それはあっさり叶った。1年前は、私がどれだけ離してと言っても離さなかったのに。これは、シリウスが大人になってしまったからこその変化なのだろうか。それともまた、別のなにかなのだろうか。


「別に私はそういうの望んでないから。駄犬には特に」
「おま、また駄犬って……」
「……でもね」


ベッドに額をくっつけてしくしくとわざとらしく泣くシリウスの頭をあやすように撫でると、シリウスは顔を上げてきょとんとした表情で私を見つめた。シリウスはこの1年で確かに大人びた。だけどこの表情は、幼い頃の面影を残したままだ。こうして変わらないところもたくさんあるけれど、それでも、私も彼も1年前より大人になっているということが、酷くおそろしく思えた。


「でもね、一緒に死んでくれたらうれしい」
「……俺が?」
「うん。……深い深い海の底に、一緒に沈むの」
「何で、海?」
「海の底にも地上と同じで都があるのよ。だからこわくないわ」
「……まあ、考えおく」
「ふたりで一緒に死んだら、あの人きっと大変なことになるわね」
「……確かに。ブラックの名が!とか言いそうだな」
「うわ、目に浮かぶわ」


あの人……もとい、母親の醜態を想像して、ふたりでにやりと笑った。幼い頃もこうしてよくふたりで悪巧みをしては、同じように笑っていたことをよく覚えている。あの頃は私たちが悪戯な笑みを浮かべると、そばで小さな瞳が、私たちを不安げに見つめていたのに。


「……あの子、水の底にいるの。ひとりだけ、かわいそうだわ」


ぽつりと呟くと、シリウスは一瞬目を見開いて、それから、なにも言わずに瞳を伏せた。いつの頃からか、シリウスはあの子と話さなくなってしまった。あの子も、シリウスも、同様に私にとっては大切なきょうだいだった筈なのに、私はあの子のなにもかもを守れないままで、おわってしまった。朧気な記憶だけになりつつあるあの子を、どうすれば、守ることができたのだろうか。


「そう、だよな」


あの子のことも、シリウスのことも、忘れたくない。だから、一秒でも早く、いこう。どんなに愛おしいものでも、どんなに大切なものでも、いつかは忘れてしまうなんて。そんなくるしみを感じながらどうして生きられるだろう。人間は、かなしいね。


(2010)

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