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鏡のような水面に浮かんで、月を眺めていた。耳は水に浸かりかけていて、ちゃぷん、ちゃぷんという水音と、いつか遠い昔に胎内で聴いていたような、ごうごうという音を聴いていた。


張り詰めた水面が揺れたと思ったら、聞き慣れた声に問い掛けられた。だけど、その声に答えないまま、瞬きも忘れてまっすぐに月を仰ぎ見ていた。


「……生きてるのか?」


痺れを切らしたのか、はたまた水の冷たさから早く解放されたいからか、声の主であるリドルは、水に浸されて冷えきった私の右手に触れた。


リドルの手の冷たさは、まるで、ガラスでできたフラスコのようだった。だけど、決して優しくない訳ではなく、あの丸味を帯びた底のように、どこかやわらかく、優しかった。


「……何があった?」


リドルは凛とした声を響かせながら問い掛けた。透き通る声。ベルベット。硝子。氷水。冷たくて、心地好くて、離れがたく、依存性がある。


水音と共に聴いたその声にも答えないでいようかと思った。だけど、耳の奥で何か、綺麗な鈴のような音が聞こえた気がして、口を開いた。


「……生きるのって、」


つらいね。そう言って笑うと、いつも揺るがないリドルの瞳が、くらりと一瞬だけ揺れた。それと同時に、鏡のような水面が、音を立てながら割れた。


全身を水で濡らしたままリドルに抱きしめられながら、空高く浮かんだ月を見つめてぼんやりと思った。


一体誰が、月が浮かんでいると言ったのだろうか。もしかしたらあれは、浮かんでいるのではなくて、沈んでいるのかもしれないのに。もしかしたらあれは、空に穴が空いて、向こう側が漏れだしているのかもしれないのに。どうして、だれが、そんな定義を定めたのだろうか。


生きる事だって、誰かが定義を定めて、善と悪、光と闇、あらゆるものを定めて、押し付けて、生きにくくする。どうしてこんな世界で、泣き声を上げないで生きて、逝けるだろうか。いっそ狂ってしまえば、よかったのか。


「それでも、生きているんだよ」


見上げた月は、あまりにも美しかった。もしかしたら、ただの穴かもしれないのに。それでも、美しかった。


(2010)

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