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暗い瞳で彼は見つめていた。滴る、薄気味悪いその赤を。何の感情も伝わってこない無表情な顔で、彼は見つめていた。次々と溢れては、ぽたりぽたりと落ちていく自分自身の血を、ただ、見つめていた。


私は彼のことがおそろしくて、背筋に嫌な汗が伝った。何か言わなくては、彼を止めなくては。そう思うのに、私の口からは虚しく息が漏れるだけで、声を出すことはおろか、彼に歩み寄ることも、目を逸らしてここから逃げることもできなかった。


「……」
「……」
「……、ねえ、やめようよ」
「……」
「ねえ、」


なんとか絞り出した声は、情けないくらいか細くて震えていた。この暗い部屋の中、私達はふたりきりで、彼を止めることができるのは私だけだというのに、私の声は、あまりにも弱々しかった。


とろり、とろり、ぽたり。数秒前まで彼の中を巡っていたものが、彼の腕を流れていく。止めなくては、やめさせなくては。これ以上彼のこんな姿を、見ていたくない。それなのに思いとは裏腹に、私は何もできないでいた。


「セブルス、ねえ、やめようよ、痛いよ」
「うるさい」


どうしたら私は、彼の痛みを知ることができるのだろうか。きっと、同じように傷を刻んでも、私には彼の痛を、一つも分かることができない。もどかしい、くやしい、さみしい、かなしい。ああ、私があなたならよかったのに。


「ねえ、お願い」
「黙れ」


彼の手が、不意に私の眼前にかざされた。滴る赤は、止まることを知らない。なんとなく、彼は私を殺すのかと思った。それならそれでまあいいかと、まるで他人事のように冷めている私がいた。彼の手が、私の額に、ひたりと添えられた。冷たい、彼の手。そして、生ぬるい、鮮血。とろり、とろりと、私の顔をそれは伝った。


「お前なんか、」


ねえ、どうしたら、私は彼の痛みを知ることができるの。泣かないでと言いたいのに。私がいると叫びたいのに。彼の心には、私が生きる隙間すらない。気付いて。見つけて。抱きしめて。愛してなんて言わないから。彼女の代わりになれないことくらい、わかっているから。


「死ねばいいんだ」


こんなにもいとおしいのに。こんなにも愛しているのに。私のおもいは、何一つ伝わらない。私が彼の痛みがわからないように、彼は私の痛みを知らない。本当に知らないのか、知らないふりをしているのか、私はそれも知ることができない。どうしてこんなにも苦しいのだろう。この苦しみが、彼の苦しみと同じならばいいのにと、ずるい考えが浮かぶ。


ああ、だから私は、彼の痛みを知ることができないんだ。ずるくて、愚かで、彼女の代わりにすらなれなかった私を、彼が愛してくれる筈がない。どんなに願ったって、彼に愛された彼女になれない。できることなら彼が望む通り、私が彼女の代わりに命を落とせばよかったのに。


「……ごめんなさい、こんな私で、ごめんなさい」


彼の血が、私の頬を伝う。追いかけるように、私の瞳から涙が流れた。同じように、彼も声を出さずに泣いていた。私が彼女のような人間だったら、彼は苦しまないでよかったのに。どうして私はこんなにも無力で、愚かなのだろう。彼の痛みを知りたい。彼の苦しみを消し去りたい。私の願いは、ただそれだけなのに。たとえどんなに願ったって、きっと私はなににもなれない。


(2011)

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