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午前2時、息苦しさで目が覚めた。網戸にした窓から、季節が夏を迎えようとしているせいで湿り気を帯びた風が吹き込み、すっかり日焼けして変色してしまったカーテンを、ゆらゆらと揺らしていた。窓の外では遠く、犬が吠える声が聞こえ、壁紙が剥がれかけた薄い壁に隔てられた隣室からは、人のものでありながら獣のそれのような呻き声と、スプリングが軋む音が漏れ聞こえていた。


腹に掛けた薄い布団を脇にやって、学生時代から使い続けている安いフレームベッドから床に両足をそろりと降ろす。ワックスが剥がれてざらつく板張りの床は、その質感とは裏腹にひんやりと冷たく、汗ばんでべとついた体をほんの少しばかり冷やしてくれた。


立て付けの悪い引き戸で隔てられただけの狭い自室を出て、玄関と隣接しているキッチンと呼ぶにはあまりにも粗末な、一昔前のガスコンロと、水垢がこびり付いて落ちなくなったシンクと、申し訳程度の調理台があるだけの、簡素な台所に足を踏み入れた。


ベッドと一緒に買った当時最先端だった冷蔵庫は、この小さく薄汚れた台所とはあまりにも不釣り合いに大きく、てんでちぐはぐだった。今ではもう古く時代遅れになってしまったそれは、低くぶぅーんと音を立てながら、まるで番人のように鎮座していた。


蛇口を捻って、グラスいっぱいに注いだ水を、喉を鳴らしながら飲み干した。生温くカルキの臭いが後口に残るそれは決して美味しいと言える代物ではなく、私はいつも顔をしかめたくなってしまう。都心の学校への進学を機に、山と川しかなかった田舎からこちらへ引っ越した日の夜に、やはり私はこんなふうに蛇口を捻って水を飲んだのだが、その不味さに思わず顔をしかめてしまった。それまで何も考えずに飲んでいた水道水が、如何に美味しく恵まれていて、都会の水が不味いという話が事実であったことを知った夜だった。


もう一杯水を注いで、私はそれを零さないように注意しながら、磨りガラスがはめ込まれた引き戸を開けて畳が敷いてある居間に入り、薄暗闇の中でこちらに背を向けて座るセブルスに歩み寄った。狭い部屋の中央に置いてある足の低い少し傾いた机にコップを置いて、セブルスの隣に腰を下ろした。彼はどこを見るともなく見つめているようだが、明かりがないこの部屋の中では、互いの息の音が聞こえるほどに近づいても、その表情を知ることはできなかった。


「眠れないの?」
「……お前こそ」
「水が飲みたくなっただけだよ」


グラスには無数の水滴が浮かんでいて、あんな生温い水でもこうなるものなのかと、不思議に思った。見かけだけは故郷のそれと何ら変わりないその水は、口にするとやはり違うものではないのかと思うほどにその差は歴然としていて、今度こそ顔をしかめた。


決して慣れないと思っていた方言がない言い回しには慣れても、何年暮らそうとも水の味にだけは慣れることはなかった。あの、故郷の蛇口から直に出てくる冷たく冷えた水は懐かしく、今も惹かれる。しかしだからと言って、あの場所に還るつもりは毛頭なかった。


「セブルスも水、飲む?」
「いらない」
「そう」


残りの水も飲み干してグラスを置き、ぐいと手で口元を拭い一呼吸をすると、先程まで感じていた不快感のようなものは消え失せていた。口の中はやはりカルキ臭いけれども、ひんやりとした畳のお陰もあってか、すっかり気分は楽になった。


セブルスに寄り添って、肩に軽くもたれると、自然と頬が緩んだけれども、どうしてだか、泣きたくなった。目を閉じると、かつて暮らしたあの街で遠く聞こえた、虫や蛙の鳴き声が耳に蘇った。この場所でそれは聞くことはできないものであり、懐かしさと寂しさがせめぎあった。


隣で身動ぎもしないで先程から変わらず座っているセブルスの故郷は、一体どんなだったのだろうか。私の故郷のように、虫の音が聞こえたのだろうか。水は、冷たく美味しかっただろうか。私は何も、知らない。


「セブルス、」
「何だ」


セブルスの故郷がどんなだったかを知るすべは私にはない。彼の故郷には、忘れられないものが多すぎて、そして、彼のはつこいがそこに眠っている。それはとても神聖で、私が入り込む隙間なんて当然あるはずもなく。


「本当はね、泣いてるのかと思ったの」


ねえ、セブルス。ここよりずっと水が美味しい場所で、ずっと、ふたりで生きようよ。あなたを選ばないでしんでしまったあの子のことなんて忘れてしまって、私と、ふたりで生きようよ。心の中で思うだけで、声にはならないまま、カルキの臭いを二酸化炭素と一緒に吐き出した。


そろりと私の腹に腕が回され、それを合図にしたように私はセブルスを抱きしめて、ゆるゆるとその背をなぜた。弱く痩せ細ったセブルスは、私があいした彼の筈なのに、違う人のようで、彼をこんなふうにした彼女が憎くて、彼にこんなにも愛された彼女が、途方もなく羨ましかった。


隣の部屋から漏れ聞こえるスプリングが軋む音と喘ぎ声は、どうやらピークを迎えようとしているらしかった。私はそれが憎らしくもあり、羨ましくもあった。愛する人の腕に抱かれることは、私には、叶わないことなのだ。確かに聞こえたはずの虫の音はやはり幻で、カルキの臭いが私に、どうしようもない現実を突き付けていた。


(2011)

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