06
凛月がジロジロと楽譜を見始めたので名字に声をかけると僅かに驚いた、みたいな顔をした。話しかけられるとは思わなかったんだろう。まあ確かに俺たちは仲がいい関係ではないが知らない間柄でもない。
セレナードという言葉のフレーズは綺麗な響きだと素直に思っている。でもその曲を弾くことに名字は抵抗があるらしい。なんでだかは分からないが凛月はわかっているようでだからこそ揶揄ったのだろう。恋人の為の歌だなんてとてもロマンチックではないか。昔の人は情熱的だな、なんて考えるが不満そうな顔で凛月を見る名字には本当に思うことが有るのだろう。そこに踏みこんでまで知りたいとは思わなかった。
丁度業務連絡が来ていたので返事をしていると凛月の声がした。どうやら始めるらしく名字は凛月の隣に腰掛けた。え、けっこう密着してるけどそういうもんなの?え?もしやこの2人…。
「ま〜くん、今やらしいこと考えたでしょ。これは譜めくりしてもらう為に隣に座ってるんだからね〜?」
「は!?いや、全然全く、はは。」
じとりと凛月に睨まれどうどうと宥めるとはあ、と重苦しい息を吐いた。ぷらぷらと両手を振る凛月。…指のストレッチだろうか。
「この曲を弾いたことはあるんだけど覚えてるかなあ。」
凛月がゆっくりと鍵盤に指を滑らせる。重苦しい音の始まりに俺は思わずどきりとした。恋人への歌だなんて言うから明るい曲をイメージしていたのだ。暗い青色みたいな曲だと思った。時折交じる明るい音にアンバランスを感じる。そして曲の終りも静かなものだった。聴いてみてやっぱり名字がその曲を弾いていることが変だとは思えなかったし彼女がこの曲を弾いている事が想像出来た。
俺は凛月に拍手を送った。ぱらぱらと譜面を捲ってサポートしていた名字も ぐっと唇を噛んで手を叩いている。こういうクラシックは全く分からないがやはり凛月はピアノが上手なんだろうと思う。
「どう?役に立てた?」
「……はい、ありがとうございました…。」
名字は間を開けてから返事をするとほんの少しだけ俯いてすぐに顔を上げた。パチリと目が合う。名字の目はすっかり冷えきっていて表情が読めなかった。
名字は譜面を鞄に詰めるとお邪魔しましたと帰っていってしまう。
「…なんかイメージと違うよな。」
「何が?」
ぐーっと、伸びたあとに凛月はとろんと眠そうな顔をこちらに向けた。
「いや、名字ってさ、なんでもクールにこなすイメージあったんだよな。こんなふうに誰かに助けを求める姿が想像つかなくて。」
「あは、なにそれ。なまえはけっこう弱っちいよ。意外とすぐ気にするし何でもできそうに見えるけど、あの子も人間だからね。」
凛月の言葉を聞きながらそうか、と頷いた。とっきにくい雰囲気が何でも1人でこなすイメージに繋がっているんだろう。損な性格だな、と勝手に名字に同情を寄せてしまう。
俺も帰るわ、と凛月に告げると名字を追うようにして家を出た。
先輩の家を出た私はぎゅうと唇を噛み締めた。若干鉄の味がする。切れたんだろう。
「( 何が違うのか分からなかった )」
確かに私のとは違ったと思う。でも強弱の付け方は一緒だ。音の重点の置き方か…?と思考を巡らせるが多分違うのだろう。ううん、なんで?イメージなのかな。そうじゃないのかな。やっぱり分からなくて肩を落とした私は仕方なく足を進めた。
弾いてもらったはいいけど朔間先輩がめちゃくちゃにピアノが上手だってことの再確認みたいになってしまった。
「おーい、名字!」
「……衣更くん。」
一緒に帰ろうぜと衣更くんが横に並んだのを複雑な気持ちで迎える。1人にして欲しかった。
「あのさ。」
「……?」
「セレナード、やっぱり名字が弾くのおかしくないと思う、んだけど…。」
ぴくりと指先が動いた。
「衣更くんに何がわかるの。」
「……はは、ごめんな。でも分かんないから凛月みたいには揶揄えないんだよ。それにあの曲を聴いてみて名字があの曲を弾いているのが想像出来たんだよなあ。」
「…なにそれ。」
だんだん腹が立ってくる。必然的に冷えた声になるが制御ができなかった。私のこと何も知らないくせに。こんなことを言われるなら朔間先輩のように揶揄ってくれた方がよっぽど良い。
「あの曲は名字に似合ってるよ。」
「似合ってない…!」
驚いた衣更くんがピタリと止まった。私はそれを見て首を振る。
「もういいから。」
そう言うとその場を足早で去る。
恋愛事とか、キラキラしている事が苦手なんだ。その時の心情だなんて言われて分かるわけがない。なまえちゃんの技術だけじゃ弾けない曲もあるのよなんて渡されたこの曲が憎らしくて仕方がない。だいたい恋人に対する切々とした想いってなに?
「ああ、馬鹿らしい。」