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楽譜を握りしめたなまえは何時にも増して陰気だった。きのこでも生えてる?
「こんな遅い時間にすみません…。」
「夜の方が家の人間は元気だから大丈夫だよ。それよりもなんて言って出てきたの?」
「おばあちゃんの家に行くと言って出てきました。」
あっそ。何その外泊する口実。ウケると笑えばじとりと睨まれた。
「先輩、ウケるとか言うんですね。意外です。」
「ああ、ま〜くんの言葉が移るのかなあ。」
「ああ、衣更くん…。」
ぼんやりとま〜くんの名前を呟いてから楽譜に目を落とした。お、何だこの反応は。
「なに、ま〜くんと何かあったの。」
「いえ特に。この間美味しいおやつを食べに一緒に行ったんですよ。あんずさんと氷鷹くんも居ました。」
へえ、ま〜くんったらちゃっかり距離を縮めているようで。なまえとピアノの部屋に行くと隣あって座る。ピアノの椅子は狭い。腕と腕がぶつかりそうになるのを隙間を作って回避した。
「で?先生にまた何か言われたわけ?」
「いいえ。先生にはもうこのままで発表会に出ましょうと言われました。でも もういつも通りも分からなくて、楽しくもなくてピアノすらも憎くて…。」
ふうんと鍵盤に適当に触れる。鳴り響くF。なまえは随分真面目だなあ。その生き方息苦しくない?しばらく適当に俺が音を鳴らしてるのを大人しく聞いていたなまえはポツリと言葉を漏らした。
「姉が、」
「………、」
「姉が結婚するんですって。」
ゆっくりなまえの寂しそうな顔を見る。上の人間に複雑な感情は抱いているけど殺したいほど憎んでいる訳でもない。まあ、それは俺も同じだった。だから言葉にし難い寂しいような焦燥感のようなよく分からない感情っていうのは理解出来る。人間とは複雑なり。
「そう。おめでとう。」
「…おめでたい、ですよね。でもそれをどんな顔をして受け入れればいいのかわからないんです。私と名字も違ってしまうし私たち家族の枠から出ていってしまう。子供が出来れば姉はもっと知らない人になってしまう、そう考えると怖くて。」
基本的に俺達はブラザーコンプレックス、シスターコンプレックスをこじらせて生きている。
「私、ピアノを辞めようと思うんです。」
「へー、もったいな。」
俺の言葉に軽く息をすうと膝に置いた拳をぎゅうと固く結んだ。少し震えた声が空気に溢れ出す。
「姉に唯一勝てるって思ってたものがピアノなんです。でも、誰もそんなの気にしてない。ピアノひとつ姉に勝てたところで何にもひっくり返らないんですもの。そもそも姉は随分前にピアノを辞めてるし…それに私は先生のいう私の機械的なピアノが勿体無いだなんて言葉がさっぱり分からない。強弱の付け方だったりテンポだってちゃんと譜面を守ってます。でも上手いだけじゃ音楽は出来ないみたいですね。技術を磨けば文句言われないって思ってたんですけど出来ることが増えるとその上をまた求められる。最近は自分の限界みたいなものが見えちゃって怖いんです。私はピアノしか知らないからこんなに怖い事があるのを初めて知りました。結局、私には何もないみたいです。」
「ふふ、今日はよく喋るじゃん。」
茶化すようにして返しても反応がない。いつもと様子が違ってなんだかやりづらいなあと頭をかくと様子を再度確認してみる。相当落ち込んでいるようだし、随分と拗ねている。こんなにわかりやすいこの子を見るのは初めてだ。なまえの中で色々なものが変わってきているのだろう。これは、ま〜くん達の影響かなあ。意図的なものでは決してないけど引き合わせてみてよかったよかった。流石俺。
…俺もそうだったけれど人と関わらなさすぎるのも自分のコンプレックスを深める原因だった。考え方が固定され思考を奪われるとどんどんドツボにハマっていく。
「発表会はいつ?」
「……1ヶ月後です。」
「あっそう。じゃあ最後の勇姿でも見に行ってあげようかな。」
なまえはほっとしたように息を吐くと頷いた。なまえがピアノを辞めてしまうのは本当に勿体無いとは思うがまあ今後もこき使ってやろうと俺は1人で笑った。
「今日はうちに泊まっていいよ。」
多少落ち着いたのか うとうとし始めたなまえにそう声をかけると腕を引いて自室に向かった。ベッドに転がすと俺をぼんやり眺めた後すぐに寝てしまう。赤ちゃんみたいに丸まっているなまえにブランケットをかけてやると一息ついた。…なんだかんだ放っておけないんだよなあ。そのまま横に転がって携帯を確認してから俺も寝ることにする。最近は昼夜を正常な人間と同じリズムにするのも慣れてきた俺はすんなりと眠りについた。
「…えーっと。」
いつものように凛月を起こしに部屋に入って固まる。なんか、二人いる?恐る恐る近寄ると凛月が大事そうに抱き枕にしている誰か。凛月は服を……着ている。
「り、凛月さん…!」
思わず小声で揺さぶると鬱陶しそうにこちらを見る赤い目。いや休日に起こしに来てやってるんだから反抗的な態度をとるんじゃありません…!まあ、瀬名先輩にも頼まれてたって言うのもあるっちゃあるけどさあ。どうやらKnightsのライブが近々あるようでそれに向けてのレッスンが詰まっているらしい。Knightsのダンスって結構フォーメーションがしっかりしているし一人欠けた時のレッスンが大変そうなのは俺でも分かる。だからどうしても凛月が必要なのだろう。それは置いておいてこの現状はなんだ。凛月の隣は誰だ。
「…あれ、ま〜くん。おはよお。」
俺の姿を確認すると途端に甘ったれた声を出す。その後自分が枕にしていた誰かに声をかけた。
「ほら、なまえ。朝だよ。」
「え?」
なまえ?ってなまえ?ええと、名字?
ううという呻き声のあとゆっくり体を起こす影は確かに女の子で名字だった。辺りを見渡して俺と目が合うと大きな目をさらに見開いた。
「………、」
なんとも言えない空気に俺はとりあえずおはようと声をかける。名字はいつもの調子に戻ると「衣更くん、おはよう」と呟いた。すぐに凛月に視線を送ると呆れた、とばかりに息を吐く。
「先輩、休日も迎えに来てもらってるんですか?どうかと思いますよ。」
「いいんだってばあ、ま〜くんは俺をお世話することに生きがいを感じてるんだから。ねえ、ま〜くん。」
いや、そんなことはないけど などと返す余裕もない程動揺していた。え?付き合ってんのやっぱり?親しげに話している2人を見てなんだか嫌な気持ちになる。どろりとした嫌な感じのこれはなんだ。
「先輩、私は帰ります。衣更くんも毎朝大変ね。」
横をすり抜けていくのを見送ると凛月に向き直る。
「…付き合ってんの?」
「誰と誰が?」
「…………凛月と名字。」
俺の顔をまじまじと眺めたあと意地の悪い顔をした、
「え?気になる〜?ま〜くんはどう思う?」
「どう思うってお前なあ…。」
こういう顔をしてる時は大抵からかっている時で、どうやら俺はからかわれているみたいだ。ということは。
「え?何もないのに一緒に寝てた?」
ふふ、と凛月は笑うと俺の肩を数回叩いた。
「男女の友情は存在するのだよ、ま〜くん。」