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「う〜ん、上手なのよ。上手なんだけどねえ。」

先生の煮え切らない回答に私は無意識に唇を噛んだ。なんですか、上手ならいいじゃないですか。と思わず言いそうになるのを抑えた。前に何かについて口ごたえしたところ話が長くなりレッスンどころではなくなった過去があるからだ。刺激しないように私は黙った。先生はつらつらと感情が乗ってないのよねえ、とそのような事を述べたあとに興味深そうに私を眺めた。

「この時代にはセクハラ、パワハラなんとかハラって溢れてるから怖くて聞けなかったんだけどなまえちゃんって恋愛したことある…?」

………若い先生だからだろうか。こんなふうに直球で聞かれると意図が分からなくて戸惑う。

「……いえ。特に。」

「そう。じゃあ、あの人が好きで苦しい〜って感情を知らないってことね…。なまえちゃん可愛いからてっきり最低でも2人ぐらいは恋愛経験あると思ってたわ。あんまりそういうのには興味ない?」

「…まあ、そうですね。あんまり。」

そう、と残念そうに呟くと先生はぱっと表情を明るくさせた。

「じゃあそうね、恋愛とかじゃ全く無いけど悔しい〜!とかは…?理想に届かなくて苦しいとかなんかそういう切ない気持ちは?」

思わず唇を結んだ。それなら覚えがある。姉に対して、キラキラしたクラスメイトに対してなんていうかなんとも言い難い気持ちになるし、今この瞬間先生の言ってることも分からなくて歯がゆい。でもそれを先生に伝えることは何となく嫌だった。

「うーん、覚えがありそうね。そういう薄暗い気持ちをこの曲にぶつけるのよ!」

ぶつけるってどうやって…!このもやもやしたままの気持ちでピアノを弾けと?ううん、なんて難しい。大体薄暗い気持ちってなんですか。この曲って恋人に向けての曲だよね…?ううん。弾き始めようとして指が躓く。見えない壁にぶつかったみたいで私はため息をついた。


* * *

北斗はだいぶ和菓子の日を楽しみにしているようだった。顔には出ていないが顔を合わせるたびにそういえばあの話だがと和菓子の日の話を持ち出してくるのだ。北斗の事だ。本人はさほど意識していないだろうが…、うーん。
いやいやいや!いいだろ!別に楽しみにするぐらい!なんだこのモヤモヤ!
1人でツッコミを入れると北斗の方に意識を戻す。どうやら当日の集合場所の話をしているようだった。

「最寄り駅までは現地集合でいいんじゃないか?」

「そうだな。そうしよう。」

俺の言葉にそそくさと携帯を出すとどこかへ連絡している。恐らく名字だろう。最近はこんな調子だ。こいつは和菓子を食べに行くというのもだが名字に連絡をするのも楽しみのようだ。恋愛感情というより同年代の話しやすい友達ができたというのが嬉しいのだろう。………多分。

「あー……北斗さん?」

「なんだ?」

「一応確認なんだけどさ。名字の事好き、とか?そんな感じなのはあるのかな〜と。」

「好き…?勿論、友人として名字の事は好ましいとは思うが。」

そっかそっかそうだよな。と相手の背中を叩きながらホッとする。
最寄り駅までの現地集合か。どうせ名字とは最寄りが同じだし一緒に行くか連絡してみるか。携帯を取り出しながら心が浮かれている俺のことは知らないふりをした。


* * *

氷鷹くん達と約束の日私は非常にモヤモヤしていた。先生のいう感情がどうたらという感覚を全く理解できないままだったのだ。おまけに意識をしすぎてぎこちなくなるという悪循環。ピアノってこんなに難しかった?おかしいなあ。
衣更くんとは駅で待ち合わせをしていたので衣更くんを待ちながら他の人が弾いたセレナードを聴いていた。機械越しの音楽は私のそれと大して変わらないように感じる。ただし朔間先輩のセレナードはこう鬼気迫るものがあった、と思う。何が違うの。
私が心の中をモヤモヤさせているとぽんぽんと肩を叩かれた。振り返れば衣更くんが片手を上げて何かを喋った。恐らく おはよう、みたいな短い言葉だったと思う。私はイヤホンを外すとおはよう、と返した。

「………??」

衣更くんが不思議そうな顔をするので私は首を傾けた。もしかしておはようじゃなかった…?

「…なに?」

「いや、何か嫌なことでもあったかなってさ。そんな顔してる。話だったらいくらでもきけるぞ〜?」

その言葉に素直に驚いてしまった。私はあまりそういう風に気にかけてもらったことがなかった。いつもそっとされてるんだと思うがこんな真正面から声をかけられるなんてどう返答していいかが全く分からず頭が真っ白になった。

「あれ?違ったか?」

「あ、ええと。嫌なことではないんだけど…。少し行き詰まってることがあって…。」

「へえ。どんなこと?あ、あれだろ。この間凛月の家で弾いてた。」

「うん。」

衣更くんは何かに気がついた顔をすると私の肩を抱くようにして横にずれた。どうやら通行人が居たようだ。

「ごめんなさい、気が付かなかったわ。ありがとう。」

「別に大したことじゃないからさ。」

とりあえず行こうぜと私の横を歩く衣更くんは「さっきの話だけど、」と話題を戻した。私はもごもごと話し始める。

「やっぱり私にああいう情緒が求められる曲は難しいみたい。朔間先輩みたいには弾けないわ。」

「あー、それさ。この間も自分には合わない曲だ〜って言ってたけどやっぱり名字が弾いてもおかしくないと思うんだよなあ。凛月があの後もう一度弾いてくれたり曲の説明もう一度してくれたりなんてこともあったんだけどおかしいことなんて少しもないって。」

「……なんでそんなふうに思うの?」

いつもの私だったらそんなこと絶対に聞かなかったと思う。だって衣更くんがそう思っていても私がそう思うんだもの。他人の意見はお世辞と社交辞令でしかない。…そうやって普段の私なら思っただろう。でもどうしてだか今は衣更くんがそう思う理由を知りたいと感じたのだ。藁にもすがる気持ちなのだろうか。

「凛月が言ってたけどあれって暗い雰囲気なのに恋の曲なんだろ?ギャップっていうのかな。名字もクールそうに見えるけど実は音楽にあついところとかあるんだな〜って思ったら名字がそういうギャップのある恋愛の曲を弾くことはおかしくないと思ったんだ。クラシックは専門外だしうまく伝えられないんだけど、あとは単純にあの曲の雰囲気が名字とぴったりでいいと思うんだよな。あ、名字が暗いとかそういう意味じゃなくて…、ええと、落ち着いてる?嫌な気分になってないか?なってない?良かった…。あー、なんかべらべら喋っちゃったな…。」

正直、言ってることはよくわからなかったし納得は出来なかったけど衣更くんが一生懸命に私に伝えようとしてくれたのは伝わった。確かに感覚の説明ほど難しいことはないわよね。

「……ありがとう。衣更くんは優しいのね。」

「元気出た?」

「どうしてそう思うの?」

また馬鹿みたいに理由を聞いてしまったのは自分でも予想外だったが私は衣更くんの事を知りたいと感じてしまった。自分でも内心驚きながら衣更くんの言葉を待つ。

「はは、だって名字、笑ってるだろ。初めて見たよ。元気出たなら良かった。」

私の背中を数回叩いた衣更くんがチャージをするために券売機へ向かっていく。私はその背中を見送りながら腕を摩った。
触れられた背中がじんじんと熱くて言葉にできない感情に私は今、どんな顔をしているのだろうか。