▽尊出描写あり





雨が降る、鎮目町。アスファルトは黒く濡れ、草木は潤い、人々は帰路を急いだ。
本日の「BAR HOMRA」は、酷く閑散としている。悪天候も手伝ってか、相変わらず客の来ないこの店の店主 草薙は、やる事もなく一度磨き上げたグラスを照明に透かしていた。アンナは、カウンター席にちょこんと腰掛け、グラスに注がれたアセロラジュースを黙々と飲み、十束はソファにて昼寝中。その向かいのソファでは、王に寄り掛かった臣下が同じく昼寝中であった。
酷く静かに、刻々と時間は進んでいく。
ふと、グラスからソファへと視線を移した草薙は、どうしたらいいのか、と困ったような、王もとい尊の様子に、小さく吹き出した。するとその些細な気配に尊も草薙の方を見遣って、キッと軽く睨む。まるで「笑ってねーでなんとかしろ」そう言いたげな表情である。
そんな尊に寄り掛かり、惰眠を貪る臣下、こと美咲は、その尊の体温にすっかり絆されて、ふわふわと何度も何度も、夢とうつつを行き来していた。つまりは、周りの気配も朧げに感じることができ、音も耳には入っている、しかし瞼を押し上げるのは億劫。そんな状態である。けれど、できることならずっとこのまま、そう美咲は切なく願うのだ。それが叶わないと知りながら。



美咲は尊に、憧れ以外の感情を抱いていた。様は恋幕である。尊の気持ちが、自分ではない他の誰かに向けられているということに気づきながらも、諦められない。色恋沙汰には鈍感で、自身が王に恋をしていたのだと気づくのにも時間がかかった美咲だったが、尊の気持ちに気づくのにさほど時間はかからなかった。というのも、尊は恋愛ごとに関しても不器用な男なので、それはそれはわかりやすく感情を相手にぶつけるのだ。痛いくらいに、苦しいくらいに。その矛先は決まって、彼。そう、周防尊と、草薙出雲は、所謂恋人同士であった。

以前、美咲が「BAR HOMRA」から帰宅する際に、忘れ物をした事に気づき慌てて戻ると、そこで偶然見てしまったのである。大人同士の親密な関係、立ち入る勇気なんて出ない。後退り、一目散に踵を返した。走って、走って、息が切れる。立ち止まって俯いたら、ぼろり、涙がこぼれた。気づかなかった、二人がそんな関係だったなんて。しかし疎い美咲とはいえ、あんな場面に出くわせば直ぐさま理解できる。二人は、恋人同士なんだろう、と。しかしその時までは、美咲自身気づいていなかった。自分が、王に抱いてはならぬ気持ちを抱いていたということを。

美咲は悩んだ。何故二人の関係を知って悲しく思い、そして涙が出たのか。尊敬している二人が、男同士だのに恋仲だというのがショックだったのか――違う。見てしまったことへの申し訳なさか、将又後悔か――これも違う。いまいち働かない頭を回転させ、美咲は項垂れる。ならなんなのだろう、どうして涙が出るのだろう。
尊敬する王、恐れ、しかし敬愛し、憧憬を抱く最愛の――最、愛の…?まさか、そんな。自分は、王に、恋をしているんだろうか。

気づいてから、全てつじつまは合っていった。自分が依存していた理由も、涙した理由も、思い返せばピースなんていくらでも落ちていたのだ。それを当て嵌めていかなかったのは、心のどこかで自分の気持ちに気付き、また嘘だと思いたかったから。けれど気づいてしまった、気づかされてしまったのだ。それも、想い慕う、王によって。



不意に、尊は身じろいで、ソファにより深く腰掛けた。尊の肩に寄り掛かっていた美咲もまた、その衝撃でそれまでふわふわとしていた意識がすっかり呼び起こされて、しかし目だけは開けられないまま、狸寝入りを決め込む。起きたら離れなくてはならない、ならば、今のこの幸せを、王の温もりを、もう少し味わいたいと美咲は思った――のに。


「出雲」


雨の音に紛れて、心地好い低い声。しかしその声で呼ばれたのは自分ではない。美咲はすぐさま空寝を後悔した。草薙の靴が、店内の床を踏み、こちらへと近づいてくる気配が、すっかり覚醒した意識の中でありありと伝わってくる。
どうしよう、どうしよう。握りしめた手は汗で滲んで、心拍数が上がる上がる。
これは、無謀とも言える欲望を、幸せを、求めた自分への罰だろうか。お前に付け入る隙はどこにもない、そう突き付けられたかのように、美咲はじんと目頭が熱くなるのを感じた。
握りしめた汗ばむ手、降り止まない雨、心地好い声と、愛しい温もり。ああ煩わしい。けれど一番、自分自身が煩わしくて仕方なかった。


「尊ぉ、八田ちゃん起きてまうで」
「…構わねぇよ」
「はぁ……で、王サマ、ご用件は?」
「あとで部屋に来い」
「…はいはい、仰せのままに」


短い会話、なのに、二人の仲がまっすぐに伝わってくる。遠ざかっていく草薙の足音、自分が起きたら二人は二階で、睦まじい時間を過ごすのだろうか。そう考えると益々このままでいたいと思ってしまう反面、すぐにでも逃げ出したくもなった。
蘇るあの日の情景、うっとりした、草薙の表情。
自分に尊が必要なように、草薙にも尊が必要で、そんな尊が必要とするのは草薙、そこに自分はいらない。そう、邪魔なんだ。自分は今、愛しい人の幸せを邪魔しているのだ。

ゆっくりと、瞼を押し上げて、いい弁解を探す。何か、何か、いい言い訳は。しかしそう考えれば考えるほどに、言葉はでてこない。やがて美咲が目覚めたことに気づいた尊が不意に声をかける。幸せな一時が、かしゃんと音を立てて、崩れた。


「起きたか…」
「…え、あ、あれー?お、オレ尊さんに寄り掛かってました?重かったっすよねー、すみません…っ」
「おい、」
「あの、オレ、眠気覚まして来ます…、つか寝足りないんで、帰ろっかなーって考えてるんスよ、あっははは」


自分は今ちゃんと笑えているのだろうか。うまく誤魔化せているだろうか。
怪訝そうな尊の顔を見るのが怖い、美咲は目を合わせないまま、立ち上がり、スケボーを持ち上げて、半ば逃げるようにして店の外に飛び出した。

いらないのだ、自分は。尊の色恋沙汰に関わることなんてそんなこと、とてもできない。
自分は、尊にとって――王にとって、順応に働く臣下であれればそれでいい。それでいいのだから。



雨の降る鎮目町。いくら走っても、雨に濡れても、彼の温もりはいつまで経っても消えてはくれない。抑える術を失った涙は眼から零れて、雨に紛れて地面を濡らした。