蝋燭の火が夜長特有の冷たい空気をちろちろと舐めている。その灯りによって心許なく照らされた木簡を眺めながら、司馬懿は穂先の湿った筆を動かした。と、同時に背後から現れた人の気配が、彼の意識に内在してくる。
「…そろそろ休んだらどうだ?」
「名前か。」
背後から聴こえた声に、視線もやらずに言葉を返せば、こっち向くくらいしたらどうだ、とおおよそ苦笑が混じったであろう声で言われた。そう言われて司馬懿は仕方なく筆を硯の岡に置く。少し疲れた両眼を解すように目頭を摘まみながら振り振り返れば、そこには両腕で数巻ほどの竹簡を抱えた名前が居た。
「まぁ、休めっつっても俺はお前に竹簡渡しに来たんだけど。」
「…それでは休めぬではないか。」
「ふは、そうだな。」
少し奇妙な笑い方をしながら、名前は持っていた竹簡を司馬懿の机案の脇にどさりと置いた。カチャカチャ、と竹簡の擦れる音が響く。竹は高価な紙より頑丈ではあるものの、乱暴に扱うと文字が擦れて読みにくくなるからあまり乱雑に扱わないで欲しいと司馬懿が前々から口を酸っぱくして言っているのだが、しかしながら名前がその通りにしてくれた事は今までで数える程しか無かった。
あれほどやめろと言ったのに、と司馬懿は過去の様々な事を思い返しながらも、はぁと深い溜め息を着く。
そんな司馬懿の疲弊した心境とは裏腹に、あ、でも、持ってきたのは竹簡だけじゃないぜ?、と言った名前は、司馬懿の視線が再び自らに向いた時、お待たせましたと言わんばかりの笑みとどや顔で、葡萄の乗った白い大皿を見せた。司馬懿はそんな名前を見て首を傾げる。
「…葡萄?」
「おう。子桓様ん所から拝借してきた。」
「盗むの間違いではないのか?」
「んな細けぇ事気にすんなって。」
そう言ってからからと笑いながら、葡萄が少し盛られた白い皿を名前が進める。司馬懿は溜め息を付きながら名前の様子を眺めていたが、名前がおもむろに、司馬懿に葡萄を一粒食べてみせたのを見て、司馬懿は少し瞠目した。
「…良いのか?」
日頃から子桓と名前が王子や臣下の垣根を越えて仲が良いのは司馬懿も知るところであったが、だからと言って一国の王子の好物を盗んで食らうのは背徳とまでは行かずとも普通に考えれば鞭百回の重罪くらいにはなるだろう。
そう考えていたから、司馬懿は名前のその行動に驚いたのだが。
そんな司馬懿の心中を見透かしたのか、名前はにやりと少し悪そうに笑って、司馬懿に言葉をかけた。
「だって、共犯だろ。」
「…成程。」
名前のしたり顔を眺めながら、司馬懿は少しだけ動作を止める。尚も食指を伸ばす名前に、折れるようにして司馬懿が一粒葡萄を摘まめば、名前は目を丸めて司馬懿を見やった。
「……食ってくれんだ。」
「お前が望んだろう。」
「いや、まあ。…そうなんだけど。」
でも、良いのか?、と名前が問うので、司馬懿はその仏頂面を少し緩めて、くすりと綺麗に笑いながら、名前をたしなめるようにして呟いた。
「共犯だろう?」
「……なるほど。」
そこまで言ってから、名前はプッと噴き出した。そして彼が用意した葡萄は、二人の男の手によってあっと言う間に痩せ細っていったのだった。
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夢主には何だかんだで乗ってくれる司馬懿。
そして後々子桓様(曹丕)から怒られるのは夢主だけである。
これが世に言う人徳である。
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