おさないよくぼう
唇が触れる、それだけでとても満ち足りた心地になり、身体の総てが心臓に成った様なのだと、昨日のデートでファーストキスを終えた友人が幸せそうに言っていた。
「……いいなぁ、私なんてしてくれないのに」
ぽつり、と口から溢れ落ちた言葉に、友人二人の目が計四つ、ぎょろりとこちらへ向いてきた。あ、やばい。と思ったときにはもう遅く、相手は誰なのとか、いつの間に彼氏ができたのとか、怒濤の質問責めに遭いながら、それに対して言葉のあやだよ、なんて苦しい言い訳を口にする。こんな言い訳、本当は口にしたいわけじゃないんだ。だけど口にしないと、続けられない関係がある。嘘をつかなきゃ続けられない関係性は、道化師の手品とよく似ている。
「彼氏はいるけど秘密、って事にすりゃ良いじゃねえか」
私の話を聞いて、嘘の根元は平然とそう口にした。
「そんな簡単に女の子の、秘密、は友達相手に使えないんですー」
「じゃあ適当に他校の男子とかでも言っとけ。そうすりゃ悪い虫もつかずに済む」
「会わせてって言われたらどうするんですか。そもそも土方先生は彼女いないで通してるくせに、なんか狡い」
「大人には大人の事情があんだよ」
「またそれだ!」
その言葉を何度聞いたと思っているんだろう。ハンドルに手を添えた彼の手も、紫煙を吐き出す横顔も、憎らしい程に"大人"形をしていて、それが私はとても好きで、とても嫌いだ。大人だから、土方先生が大人だから、私は未だに彼を名前で呼ばせてもらえないし、友達にも言えないし、セックスはおろかキスすらしてもらえない。大人だから、何だって言うんだろう。私が子供だからと飼い殺しにするくらいなら、いっそ好きだと告げた日に首を絞めて殺してくれたらよかったんだ。それすら出来ないのなら、首輪なんて付けてくれなくてよかったんだ。
「大人は狡い」
「てめぇも大人になりゃ分かるよ」
「私は今分かりたいんです」
「馬鹿、ガキにはまだ早ぇよ」
「キスの味も?」
その言葉に、少し位動揺を見せてくれたら私の溜飲も少しは下がったことだろう。けれど、憎らしいほどに大人の彼はそんなへまを打つことはない。「そうだよ」と、その一言で私の必死な懇願は終わる。キスひとつで、と彼は思っているのだろう。キスがしたいと躍起になっている私はまだまだ子供なのだろう。いや、本当に子供なら彼が呆れるくらいに地団駄踏んで、泣き喚いて、キスをしてと彼に駄々を捏ねる事も出来た事だろう。けれど中途半端に大人になった高校生の、中途半端なプライドがそれを邪魔するのだ。
たかが唇と唇が触れるだけだ、皮膚と皮膚と接触だ。彼が私を宥めるためにそう言ったのはいつの日だったか。たかが皮膚の接触と言うのなら、手を繋ぐことと変わらないじゃないか。手は繋ぐくせに、キスはしてくれないのなら、そんな変な言い訳で逃げないでほしかった。
「……せんせ」
「なんだよ」
「名前で呼んでいい?」
「好きにしろ」
彼はそうやって、私を中途半端に甘やかす。他人に口外できなくて、キスすらできなくて、でも彼はそうやって易々と、"名前"という特権を私に与える。彼女なのかと確認する事も、いっそ別れようと言葉にする事も出来ない臆病者は、こうやって彼の酷い優しさを抱き締めながら眠りにつくのだ。彼を名前で呼ぶ権利も、するりと私の手の甲に重ねられた掌も、軽く絡められた指も、煙草の臭いが染み付いた車の助手席も、私だけの権利だと胸を張って言える訳じゃない。もしかすると、明日は別の人の権利かもしれない。人が関係性を他人に話すのは、きっと確認したいからだ。自分とその人が愛し合った関係性なのだと、誰かに話しながら指でなぞって確認したいからだ。ならそれが出来ない私は、どうやって確認すればいいのだろう。
「……歳三さん」
「なんだよ、なまえ。妙に大人しいじゃねえか」
「誰のせいですか」
「俺のせいだろうよ。……ったく、そんな拗ねるんじゃねえよ、そういうところが」
「"ガキだって言うんたよ"って言いたいんですか」
「解ってるなら話は早ぇな」
「キスをしないのも、"ガキ"だから?」
呆れたと言うような顔をした彼の口から吐かれた紫煙が、流れて、流れて、窓から外の世界に出た瞬間、それは跡形もなく消えてしまう。窓を閉めたら、こんなにも充満するのに。それを眺めながら、まるで私達みたいだなと馬鹿な事を考えた。
「……卒業したらって何度言やぁ解るんだ?」
「納得できないって何度もいってるじゃないですか」
「説明してもわかんねえだろ」
「そうやって決めつけて理由を教えてくれないのは、歳三さんの悪いところだよ」
「ほう。じゃあ"せきあふ"」
「え?」
「わかんねえのか?"念じ侘ぶ"」
「え、え?」
「ほらみろ、わかんねえだろ。この話はこれで終わりだな」
「いやそれただの古語テストだよね!脈略もにもなかったよ!!」
「うるせえ。キスだのなんだの喚く暇があるなら勉強のひとつでもしやがれ。毎回毎回赤点ギリギリの点数取りやがって」
「補講になれば二人きりでいられるかなって言う葛藤の末だよ。って違う!そうじゃない!!」
「補講には常習犯の総司がいるから二人きりは有り得ねえよ。ほら着いたぜ、降りろ」
「話は!おわってない!!」
「あー……うるせえなぁ……」
「歳三さんは経験豊富で飽きるほどしてきたから今更欲もないんだろうけど、私はキスだってしたいん、ーー」
一瞬だった。隣に座っていた彼の顔がふっと目前になって、思わず身を引いてもシートがそれの邪魔をした。え、え?と困惑する私を他所に、彼の菫色した瞳はじっと私を見つめたまま何も語らない。ばくばくと心臓がうるさくて、この時間が何なのかが解らなくて、遂に怒らせてしまったのか、友人がキスをした事に焦ってしまいいつもよりしつこかったバチなのか、それとも遂に、キスをしてくれるのか。思考回路はぐちゃぐちゃで、自分に都合の良い様にも悪い様にも想像を働かせたのはほんの十数秒の間だったのだろう。ふっと彼の顔が動き、唇が当てられた場所は、ーー瞼、だった。
「……んぇ?」
「着いたって言ってるだろ、早く降りろ。家の人に見つかったらどうすんだ」
「いやおかしいな?!今のは完全にキスの流れだったよ!!」
「あれくらいで身構えて固まってたガキがぴーぴーうるせえ」
「この女たらし!!」
「お褒めに預かり光栄だな」
「誉めてない!」
この馬鹿三!!とクラスの人間が聞いたら気でも狂ったのかと思われても仕方ない捨て台詞と共に、私はドアに手を掛けて一瞬彼を睨み付けてからガチャとドアを開けて外に出る。べ、と舌を出してやれば、ゆっくりと助手席側の窓が下がった。
「なまえ、ひとつ言うのを忘れてた」
「なんですか」
「さっきの言葉だが、"せきあふ"は堪える、"念じ侘ぶ"は我慢が出来ねえって意味があるんだよ」
「……はぁ」
「わからねぇって顔だな。まぁなんだ、飽きるほどしたところで、好きな奴としたくならないわけじゃねえ。ただな」
キスなんざしたら、お前が泣く羽目になるかもしれねえぞ。
一瞬、ほんの一瞬、彼の表情が"雄"の様だった。いつもの、大人の余裕が滲み出たような表情でも、呆れた様な優しく甘い顔でもない。それは、ただの、捕食者の、それだった。
「意味が解れば少しは大人だって認めてやるよ」
窓がしまり、聞きなれたエンジン音と共に彼の車は小さくなっていく。冷たい風に晒された素肌の冷たさが、今だけは不思議と気にならない。結局煙に巻かれた事に気付いたのは母親の声で我に帰ってからだった。
おさないよくぼう
真意を知るのは、卒業式の夜
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