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汚れてでも愛したかった

※二人が少しひどい人間かもしれません
※跡部に妻子がいます




「もう、止めようや。こんなん」

虚しいだけや。そう言った、かつての少年は己の唇に微かな震えも許すことはなかった。

「……俺様がお前を離すと思ってんのか」
「俺等のそんな我儘が許されると思う程、もう子供とちゃうやろ?俺はともかく、お前には"跡部"の跡継ぎがどないしても要るんや」

その、まるで幼子へ優しく言い聞かせるような言葉に、もう一人の青年から思わず舌打ちが洩れた。御互いに、解っていた。解りすぎていた。好きという気持ちだけではどうにもならない事も、この関係がいつまでも許されるものではない事も。
二人が別れたのは、跡部景吾の見合い話が決まったときである。


数十年の月日が流れ、ギリシア像の彫刻の様に変わらず整った顔にも必然的な皺が浮かんでいる。鏡に映った己の姿に、跡部は何処と無く自虐的とも取れる笑みを浮かべた。

「……ハッ。俺様も歳を取ったな」

忍足をもう一度自分の腕に抱きたいと考えて、どれだけの月日が経ったのか。別れた日から、跡部は後継者としての本格的な修行を始めた。当時の当主であった父(五年前に先代となった)の事業を手伝い、見合いで結婚した女性と家庭を気づき、二十五年前には男児を一人授かった。総てが、この賢い男の計画通りだった。

「……父さん?」

ドアをノックする音が聞こえ、入れ、と返事をし部屋へ足を踏み入れたのは、跡部と同じ碧眼の青年だった。そして、歴とした跡部の息子であり、跡部財閥の後継者で、今日からは"当主"となる。己によく似た青年に双眸を細め、跡部は自分の息子を見つめる。

「どうした」
「いえ。……行くのか、と」
「アーン?」
「父さんが、いつか遠くへ行くとは、幼い頃から思っていました」
「……そうか」

否定もせず、肯定もせず。本当なら跡部は息子が生まれた瞬間からでも唯一人の男のもとへと走っていくつもりではいた。然れどそれはあくまでも、"跡部景吾"個人の感情であり"跡部財閥の一人息子"としては、その時期は未だ早い。一人の夫として、親として、そして人としても、自分が最低な道を選ぼうとしていることは跡部も理解はしていた。けれど男として、一人の人間として、あの日幼い自分が手離すしかなかった唯一人を、もう一度この手に抱きたかった。そうして次は、もう二度と手放したくなかった。

(幼い頃から、数々の教育を叩き込み、……もう、一人立ちできる筈だ)

息子が二十五才になり、跡部は、見た目こそそうは見えないものの、五十になる。今日の事はずっと考えていた。考えての、事だった。
会社を託してもこの男なら大丈夫だろうと、親の贔屓目を抜きにしても信頼がおける。それに何かあれば樺地が全面的なサポートは惜しまない筈だと言うことを跡部は確信していた。加えて、「息子を頼む」と跡部に言われた樺地が、それを違える筈もない。

「母さんの事も私の事も、何も心配をせずに……、――ご自身の、跡部景吾の幸せを御求め下さい」
「っ……、ハ。言うようになったじゃねーの。息子として、今に家族を捨てようとしている父親を恨まねえのか」
「……恨まないと言えば嘘になります。けれど、父さんは"父さん"であった時、いつでも私達の事を一番に考えてくれていました。だから、……」
「……お前はいつから気づいていた?俺が、いつかは遠くへ行くと」
「…………父さんは、母さんの髪を格別に愛でていましたね。けれどその瞳は、母さんを見る瞳は違っていました」

跡部の選んだ女性は、青みを帯びた黒髪――忍足とよく似た髪をもっていた。そこまで気付いていたとは、と、跡部は再度目の前の青年が自分の息子であることを実感した。観察眼や洞察力にも優れていて、ビジネスも上手くやっていける。

「……そうか。それなら話は早い。今日から、この跡部財閥は頼んだぜ?」
「力の限りを尽くします。――父さん」
「アーン?」
「父さんにとって、"俺"は、どう言った存在ですか」
「この俺様の自慢の一人息子だ。この言葉に嘘はねぇ」

間髪を入れずにそう返せば、くしゃりと幼子のように青年の表情は変わった。一言、小さく謝罪の言葉と共に目尻にキスを送る。がんばれよ、と言った気持ちも込めて。いつの間にか己の背丈を越していた青年に軽くハグを返した。
跡部の中に、未練がないかと言えば嘘になる。青年は跡部の血を継いだ息子である事は事実であり、そんな青年の血の半分は夫婦となって三十年近く隣で添い遂げてきた女性である。情が移らなかったという事はない。けれどそれよりも、跡部は、ただ、ただ忍足が欲しかった。

(――酷い話だ)

パタン。と、自室の部屋がしまる。もう、跡部の中に後悔は無い。門を潜る際、樺地が一度、頭を下げた。「お気をつけて」と、その眼が告げていた。

忍足の勤め先は知っている。自宅も樺地の調べでついている。結婚して子供がいれば流石の跡部でも諦めたかもしれない。これはあくまで"かも"でしかないのだが。けれど忍足は独身の侭、今日まで生きてきていた。
道中で真っ赤な薔薇を花束にしては、進む足に迷いはない。マンションの下で、胸ポケットから携帯を取りだし、電話帳の上の方に浮かぶ名前を選んで耳に押し当てる。

『……はい?』
「俺だ。開けろ」
『は?ちょ、』

忍足の言葉を待たずに電話を切る。今日は仕事は無い筈だ。それなら、あいつの性格として自宅に居ることが多いと、そう踏んでいた。

カシャン、と、鍵の開く音がする。

「……よう、久しぶりじゃねーの」

ドアから見えた顔は、跡部が今までずっと恋い焦がれてきた顔だった。赤い薔薇の花束をその男に押し付けたが、反応がない。ただ、変わらない切れ長の双眸が見開かれ、「跡部か……?」と、あの日震える事を許されなかった唇が、声が、震えていた。

「俺様以外に誰が居るんだよ?」
「……なんで、」
「お前を、迎えに来た」
「は……?」
「家の事も跡継ぎの事も総て心配することはねぇ」

嘘や、と、忍足が発する事がなかったのは、その碧眼が剰りにも雄弁だったから。忍足の手を取って、その掌にキスを落とす様は相変わらず絵画のようだ。

「――侑士、お前だけを愛してる。俺と生きてくれ」

もう理想や夢だけを机上に描いた幼い少年は何処にもいない。居るのは、総てを成し遂げ、終えてきた、一人の男である。もう、何を拒む必要があるだろう。何に怯える必要があるのだろう。部屋に踏み入れられた足に、自分の腕を引く手に、そうして抱き締める身体を、受け入れるだけ。愛している、と、若者のように求めればいい。

「景、吾……。景吾、夢や、ないんか」
「これが夢なわけねえだろ」

何十年も忘れられず焦がれ続けてきた男が、今此処に居る。夢でもいい、なんでもいい。忍足は縋るように自分の手を跡部の背に回した。記憶に残る物よりも、若干痩せていることに、流れた時を思い知らされる。

「景吾、愛しとる」
「っああ……、その言葉が聞きたかった」
「……眼は、変わらず綺麗やなぁ」

忍足の指先が跡部の頬にゆっくりと触れる。その動きが、本当に夢ではないのかを確かめるように、壊れないように怯えているみたいで、跡部が確りとその手を取る。夢じゃない、と確認させるように。

「ふは。お互い、年取ったなぁ」

別れの時、一粒たりとも涙を流さなかった二人の頬を、今はらはらと涙が濡らす。付き合っている時ですら滅多に見えなかった。涙脆いのは歳のせいか?と軽口を叩けば、まるであの頃に戻ったようだった。

「随分と遠回りしてきたな」
「……かもしれへんけど、俺はもう逢えへんと思うてたわ。同窓会も滅多に来ォへんし」
「予定が合わなかったんだよ」
「そう言うんは岳人や宍戸に言え。怒ってるから」
「……侑士」
「ん。話の続きはソファの上で聞くわ。コーヒーは変わらずブラックか?」

ああ。と頷いて身を離しリビングに入る。忍足らしい。それが部屋を見た瞬間に跡部が抱いた感想だ。独り暮らしに必要な分だけの広さで、家具は変わらずにモノクロ調。収入は人並み以上に入っているくせに。
コーヒーを入れる忍足の方を振り替えると、カップを持つ手が微かに震えていて、嗚呼こいつも緊張しているのかと知れる。それは二人で居ることではない、きっとこれからの事だ。

「忍足」
「おん?」
「安心しろ。もう何があっても、お前から離れねぇ」
「……アホか。それはこっちの台詞や」
「どう言うことだ?」
「もう、お前を手離せへんから。というか手離されへんから。……せやから、そんな不安そうな表情すんなや」

困った顔して笑う忍足の表情が、跡部はずっと好きだった。ここで衝動に任せ抱き締めるだけの若さではない。誰かの幸せは、いつも誰かの涙の上で成り立っている。跡部の家の幸せは、この二人の涙の上で成り立っていたし、この二人の幸せは家の涙の上で成り立つのだろう。

ただ今は、コーヒーの匂いが流れる空間で、これからの事を話したい。今までの時間を埋めるように。



汚れてでも愛しかったから


  幸せと呼べるものを、彼らは探していくのだろう


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