鼓動の微睡み 私、みょうじなまえが此処へ来て、早数年の月日が経った。時が経つごとにカレンダーの無い暦の読み方や年号、携帯を使わない調べ方、ガスのない湯の沸かし方など、様々な物事を覚え、慣れ親しむようになってきた。私たち平成の人間は、どれ程文明の進化に甘えてきたんだと、偉い人の書く論文無しで身をもって自覚することができるんだから凄いと思う。
そんな私が、未だに上手くできないことは、ここにしっかりと存在する。
「……土方さん、今日は休むようにと言われてたはずじゃ」
「そうだな。近藤さんから貰った非番を俺の好きに使って何処が悪ぃんだよ」
「その書類の山ですよ」
山積みになった書類を見て、嗚呼ここで誰かがこの部屋の襖を開ければこの紙達は面白おかしく躍り上がるのだろうなと、彼本人には洒落にもならないことを考えた。それにしても、彼はどうしてこうも休もうとしないのか。「土方歳三の休ませ方」これが私の未だに分からない方法である。真っ直ぐに休んでくださいと頼んでも、彼は聞く耳を持たない。私が代わりにやりますからと言えるような仕事じゃない。けれどだからと言ってじゃあ分かりましたとあっさり引くことが出来ないほど、彼の目の下にはくっきりとした隈が刻まれていた。折角の色男もこうなってしまえば台無しである。
「……土方さん土方さん」
「なんだ」
「……。こちらを見向きもせずに返事をするのは如何なものかと」
「話し込む暇がねぇんだよ」
その"暇"を確保するための非番だということを、彼は気づいていないのだろうか。いや、きっと気づいている。気付いているのにも関わらず、彼は気付かないフリをしているに過ぎないのだ。そして、何故土方さんを休ませる任務に雪村さんでなく私が任命されたか。
(それはつまり、情に訴えかけるような頼み方は最早必要とされてないということだ)
「土方さん」
「……なんだ」
何度、名を呼び掛けても彼から帰ってくるのはこんな短い返事ばかりだ。これは骨が折れるぞと重たい溜め息を吐いたところで、聞こえているであろうにも関わらず、彼は耳に猿をくっつけて「聞かざる」の姿勢をキープする。いや、一応聞き返してはくれているのだから「聞かざる」とは言えないかもしれない。
「……。少し逢い引きしませんか」
「逢い引きなんざ可笑しな冗談言う暇あるなら墨でも摺ってろ。足らねぇんだよ」
「私の記憶が正しければ、今朝摺ってたと思うんですけどね」
「そんだけ忙しいんだ、察しろ」
副長室周辺の人払いは済ませてあるからこそ、私は女としての私で話せている。それも、私が部屋に着き、いつもながらの無邪気なみょうじ君を演じ出した瞬間に「人払いしてるからその気持ち悪ィお前は要らねぇよ」と土方さんが言ったから知ったことだ。確かに、屯所でいるときは基本的に"みょうじ君"として息をする私からすれば、仮面を外せる空間は貴重だ。そして息がしやすい。
(そうやって、私には"休み"をくれるくせに)
あなたは自分に休みをあげない。
甘味を食べませんか、沢庵が美味しく浸けているらしいですよ、いい天気ですし外に出ませんか。そんな誘いの総てに返ってくるのは「忙しいから後にしろ」という言葉だけ。温かい茶でも飲めば一息つけるかとも考えたが、茶を飲むことをひとつの過程のように彼は終わらせた。しかもその飲んでいる間も右手は忙しなく動いていたのだから呆れるほどだ。その点沖田さんは凄いなぁ、悪戯の度合いもわかっていて、上手く土方さんを休ませられる。そんな沖田さんも、今日は近藤さんの同行だと朝から御機嫌そうに出掛けていった今、私には頼れる人がいない。
「……。ちょっと失礼しますね」
「あ?何……ってお前!何してんだ!」
こうなれば強行手段だ。土方さんが今しがた使っていた硯を取り上げれば彼は眉間に皺を寄せて私を見る。ああ、あんなに綺麗だった肌が、こんなにも疲れを訴えかけているではないか。本当に、この人は……
「馬鹿」
「ああ?!」
「近藤さんが、今日は休むように言いました。他の方々も貴方のここ最近の様子を心配しています。皆が皆雪村さんのように顔に出るわけではないですが、貴方も、とおに気付いていたでしょう?」
そこまで鈍い人ではないでしょう?と、もう一度念を押すように尋ねれば、彼は小さく呻いてから諦めたようにがしがしと自身の頭を掻いた。そして米神に指を添えて、大きい溜め息を吐き出したかと思えば「なまえ」と尚も硯を取り上げたままの私の名を呼ぶ。
「座れ」
「……嫌です。貴方それで私から硯を奪うつもりでしょう」
「奪うも何もそれは俺のなんだがな……。いいから、座れ。ンなことしねぇよ」
「……」
半信半疑で、それでも彼の言葉を信じて静かに腰を下ろす。そこでまた、「硯を文机に返せ」と言う彼に「仕事をするつもりなら、嫌ですよ」と首を横に振る。
「……分かったから。お前の言うとおり休む。硯取られちゃ仕事にもならねぇからな」
「!」
「その代わり、なまえ。勿論お前も協力はするんだろうな?」
「はい?」
彼の「休む」という言葉を聞き、言質は取ったぞと文机へ硯を戻した矢先のこの言葉。真意が汲み取れず首を傾げながらも、「まぁ、私に出来る事であれば」と頷いたやいなや、ぐっと腕を引かれたかと思えば向き合うような形で抱き寄せられる。咄嗟の事に反応しきれず、彼の足を跨ぎ、半ば身体に垂れかかるような体制になった私の鼻孔を彼の香が擽った。これは、なかなかに心臓に宜しくない。
「……そんなに疲れているなら歳三でも呼んできましょうか、猫の方の」
「うるせぇ。生意気な猫よりこっちの"猫"のが良いんだよ」
「……。土方さん、かなり疲れてましたね?」
「その口塞がれたくなかったら黙ってろ」
私の腰へ回る腕の力が籠り、どうしたら良いのか分からないままに恐る恐る彼の背に手を回す。それが正解だったのか、彼が頭を私の首筋に埋める。その動作がまるで猫が甘えるような仕草の様で、珍しいものもあるものだと思う反面、可愛らしいという感情が芽生えたのも事実。誰も見ていないのだからと緩む頬を隠す事もせずに、けれど彼にバレないように笑みを溢した。
けれど凄いな、と純粋に思う。人の鼓動が、こんなにも近くにある。とくん、とくん、と規則正しく響く鼓動に耳を傾けていれば、うつらうつら眠気が私を揺らし始めた。それは彼も同じようで、私を支えてくれていた身体が今では前に重心がかかり、私が僅かに支えるようになっている。そう言えば、私もこの頃いつ人が来るかも分からない生活だったせいで、気を抜けず眠れていなかったな、と漸く気付く。最後に朝まで一度も目覚めず眠れた日はいつだったか。人払いをしてある部屋の周辺に騒がしい物音は聞こえない。彼の肩に頬を添えて瞼を下ろせば、密に接した温もりと鼓動だけが私の世界の総てだ。
(気持ちいい、なぁ)
最早、穏やかな波のように私を揺らす眠気に逆らう気力も沸かず、一足先に聞こえてきた寝息を追うように私の意識も海に落ちた。
鼓動の微睡み
この温もりがこんなにも心地良い
■おまけ■
「土方さんに、お休みの命を下してはくれませんか」
出過ぎた事を言っている自覚はあるのですが、と言いながら形の良い頭を下げるのは、数年前からこの新選組で預かっているみょうじ君だった。確かにここ最近、歳の仕事ぶりは凄まじい。凄まじくて、目に余る。総司もそうだが、自分の身体をどうも省みない。今朝、広間に顔を出したあいつの目の下には酷い隈が刻まれていた事は解っているが、距離を感じてしまうからか、どうも俺はアイツらに"命令"をすることが苦手だった。
「休みなさいとは、再三言っているんだがなぁ……」
「えぇ、知ってます。けれどあの人は、それではい分かりましたと素直に頷く人じゃない。……近藤さんが、あの人たちに命令を下すことが苦手だと知っています。苦手を承知で、お願いしているのです」
「みょうじ君……」
「"近藤勇"の"頼み"で聞き入れないのならば、副長として絶対に逆らうことのできない"局長"の"命令"を、下してほしいのです」
再度頭を下げるみょうじ君に目を丸め、顔を挙げなさいと声を掛ければ、その整った顔が俺に向く。この子は気付いているのだろうか、自分の目の下にも、隈が刻まれていることを。
ーー近藤さん、なまえの話なんだが、近頃眠れてねぇのか酷ぇ面してやがる。……どうしたもんかね。
数日前、本人も無自覚なんだろうが心配そうな顔をしながらそう呟いたあいつの事を思い出した。
「まったく、……」
二人揃って他の心配はするのに、自分の事は省みないとは。
(それは決して、優しさじゃないと、君達は知っているか?)
きっと知らないのだろうなぁ。
それから少し悩んだ末、歳には副長室の人払いを済ませた上でみょうじ君を呼ぶように言い、みょうじ君には命を下した上で歳が休むよう口添えをしてくれないかと頼んだのであった。
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