淡い空の下 −−しまった。
私の心の中は、その言葉でたくさんだった。制服の袖を引いて腕時計を覗かせれば、それははっきりと8時32分を指し示していた。このまま猛ダッシュで向かえばギリギリ間に合わなくもないが、今日ばかりはそうもいかない。結局考えに考えた結果、胸の高鳴りも感じつつも、10分後に落とされるであろう雷と欠点を考えれば自然と漏れる溜め息と共にゆっくりと歩いて校門へと向かうのであった。
「みょうじ、5分遅刻だ」
ずしん。と響くような固い声も、私にとっては大好きな声にしかならない。それでも少し怒っているように見えるのは、多分私が急いだ様子もなく歩いてきたのを見ていたからだろう。案の定、私が謝る前に「走ってきたら間に合ったんじゃないの?」ととげの含んだ声を出したのは一年生の南雲君だ。正論過ぎてぐうの音も出ない私の様子を見かねてか、一君が溜め息を吐いた。
「……一応理由は聞いてやる」
「その理由次第で遅刻を見逃す気?公私混同するなよ、斎藤」
「そういうわけではない。が、あんたはここ数ヵ月ずっと全力疾走してでも滑り込んできていただろう。それなのに今日は走った様子もない。それは何故だ?」
結局チャンスはあげるんだ?と言う南雲君に、うるさい、と一言返す彼の耳がほんのり赤い。そしてあのね、遅刻をしないように頑張ってた理由はね、斎藤君。貴方が誉めてくれるから、っていうバカみたいに単純な理由だったりするんです。大好きな彼氏のためなら苦手な早起きだって頑張ったりしちゃうものなんです、彼女ってものは。
「えーと……」
そう、大好きな彼氏のためなら苦手なものだって頑張ったりしちゃうんです。その結果の、この遅刻なんです。だけどこれが遅刻の原因だと彼が知ったら、どんな顔をするだろう。呆れられるかな、怒られるかもしれない。驚いてほしくて、喜んでもらいたくて作ったのに、そう思うと簡単な理由がほんの少しも言えなくて、私はただただ視線を彷徨わせた。
■□■
−−可笑しいな。
目の前のなまえの様子を眺めながら俺は首を捻った。明らかに何かを隠している、と確信にも似た何かが心に引っ掛かる。しかし彼女が俺に隠し事をしたことなどなかったはずだ。信じたいが、残念なことに彼女はとても分かりやすい分類の人間で、何も隠していないと自分に言い聞かせる方が無理な話だ。なまえの事は信じてやりたい、が……。
改めて「理由がないなら欠点だ」と言葉をかける。無遅刻を続けているくらい真面目な彼女にとって、欠点は痛いことだろう。しかしなまえの口から出た言葉に、俺は思わずもう一度聞き返した。
「欠点、で……いい」
「は?」
「け、欠点でいい。いい、から……うん」
これは流石に意外だった。そしてそれと同時に腹もたつ。無理もないだろう、つまりなまえの態度のそれは、欠点をつけてまで俺に隠すことがあると言うことだ。己は意外と束縛心も強く、好きな相手のことなら総てを知っておきたい強欲さも持ち合わせていると言うことは、彼女と付き合って初めて知った事だ。解っているんだ、なまえだって人間なのだから隠し事のひとつやふたつもするだろう。だがそんな俺にとっては、勝手と分かっていながらも、なまえの頑なに何かを隠す姿が不快だった。
「……なまえ」
「は、はいっ!」
自分で思った以上に低い声が出たらしく、目の前の彼女が小動物のように肩を跳ねさせた。そして、怒ってる?と伺うように俺を見上げる。ああ、可愛いなと思いはするものの、胸の内は晴れない。
「一体、何を隠している?」
「!」
ああほら、あんたはこんなにも分かりやすい。隠し事をするのであればもっと解らぬようにすればいいというのに。歩いて校門へ向かってくるなまえは歩き方からしても何処かに怪我をした様子はなかった。と、すればだ。
「……遅刻をするような事があったのか。遅刻をした挙げ句、急ぐ様子もなかったな」
「は、はじめ?」
「理由を聞いても何も答えないどころか、何かを必死に隠す」
「あの、」
「何か疚しい理由でもあったのか」
「!」
ばっと顔を上げたなまえの顔は衝撃と困惑に満ちていた。"どうしてそんな事を言うの。"と表情が優に語っている。どうやら最悪の想定だった疚しい理由では無いことが分かり一先ず胸を撫で下ろしたが、それではなまえの隠している事とは何だろうか。注意深く彼女の様子を観察すると、ふと手の先が気になった。
「(なまえは元々カーディガンを着ている。だが、こんなにも大きかったか……?)」
そのカーディガンはなまえの手の半分以上、ほぼすべてを覆っていた。それもただぶかいと言うわけではなさそうで、無理矢理引き伸ばしたかのようだった。そこで、ふと、気にかかったものがある。
「……その指、」
「!!」
びくっとなまえの肩が跳ねるや否や、ぱっとその手が後ろに仕舞われる。そして視線を泳がせながら「じゃあ私は行くね!またお昼に!」と無理矢理会話を終わらせたいかのようにギクシャクと逃げようとしたなまえの細い手首を掴んだ。
「……待て。その怪我はどうした」
「……!」
見間違えるわけがない、隠されていたのは絆創膏だ。それも一つや二つではない。怪我を俺に隠す必要がどこにある?もしや、俺のせいでなにか嫌がらせを受けてでも……(現に付き合いはじめの頃そういうことがあった)。俺がその可能性を疑っているのを察したのか、「違う、違うんだよはじめ!」と勢いのいい否定の声が飛んできた。
「ならば、一体なんだというんだ」
「う、ぁ……ええと、その理由は、もう数時間待ってほしい、かなって」
「今聞きたい」
「ううう」
はじめは時おり凄く強引になるね。と呟いて、観念したようになまえは俺に向き直る。
「笑わない?」
「?笑わない」
「どんなものでも馬鹿にしない?」
「ああ」
質問の意図がわからないものの頷けば、「じゃあ、これ」と恐る恐る目の前に差し出されたものは、空の色をした水玉の巾着袋だった。
「……これは」
「あーー!やっぱり嫌だよね、困るよね、はじめ、料理上手いし、こんなの幻滅するよね……」
「一応、お弁当……って、世間では呼ばれるやつ、です」と途切れ途切れ発せられた言葉に全てが繋がった。不自然な遅刻、そして態度、指先に巻かれた幾つもの絆創膏。ああそうか、そういうことだったのか。
そのすべてが俺だけの為と言うのならば、それを嬉しいと思わぬ男が何処にいる。
込み上げてきた感情を表す言葉を口に出来るほど、俺は口がうまいわけではなく、しかし辛抱たまらずただ目の前のなまえを抱き締めた。
「は、ははははははじめ?!」
「すまない、……ありがとう」
「ん?!え、あ、よ、喜んでもらえて何よりだよ!」
ああ、きっと今の俺はひどく情けない顔をしているのだろうな。最初は混乱と焦りと驚きが乱雑していた様子だったが、嫌がる気配もなくそのまま腕の力を少し込めると、落ち着きをとりもどしたなまえの手が俺の背に回る。愛しいと、こんなに素直に想う日が来るとは思ってもいなかった。
「なまえ、」
「あのさあ、何してるの?」
だがその柔らかな雰囲気は、男にしては少し高めの声に壊されることとなる。その声が聞こえるやいなや、バッとなまえから身を離したがもう遅く、カシャ、と無機質なシャッター音が響かされる。
「そ、総司……?!」
「風紀委員が風紀壊してるんじゃ何も言えないよねぇ、むっつり。周り見えてないんじゃないの。薫を見なよ、面白い……じゃなかった、可哀想なことに何とも言えない顔してるじゃないか。朝っぱらから君達バカップルの茶番に付き合わされてさ」
「……。斎藤、沖田とみょうじのついでにお前にも欠点つけてやりたい気分だよ」
待て。それは理不尽だろう。この学園において異性交遊を禁じた覚えもなければ、この行為が風紀を乱しているとも言いがたい。
「あ、酷いなぁ。今日くらい見逃してよ」
「今日くらいと言うがあんたな……昨日も一昨日も遅刻してきただろう」
「うん。だからタダでとは言わないよ?これ、ばら蒔かれたくなかったら見逃して?」
これ、と言われて目の前に向けられたのは、先程の写真だった。思いの外赤くなっていた己の顔はひどく間抜けであったが、同じ様に赤くなったなまえの顔は可愛……いやいや。
「これは脅迫の類いだろう……!」
「やだなぁ人聞きの悪い。賢い交渉だって言ってよ」
「なにこれなにこれ総司君!!見て!はじめが可愛いよ!」
「あ、うん。そう喜ばれると反応に困るんだけどなぁ」
後でLIMEで送ってあげるだあげないだの、その代わり今度売店でイチゴ牛乳を奢れだのと話し始めた二人に溜め息を吐けば、「溜め息をつきたいのは俺の方だよ」と眉間に皺を寄せた南雲が吐き捨てるように呟いた。
淡い空の下
こんな日が続くことを密かに願う、
「ねぇ、あの場では言わなかったけど一君って毎日自分でお弁当作ってきてなかった?」
「……。自分で作ったものは部活の前にでも食べよう」
「部活前に二つも、ね。絶対横腹痛くなるやつだよそれ」
「…………」
「まぁ安心すれば?絶対になまえちゃん、自分の分作るの忘れてるから。交換したらいいんじゃない?」
「あんたは人の彼女を何だと思ってるんだ……。そこまで馬鹿ではないだろう」
そこまでの馬鹿だったと知るのは、昼休みになってからだった。
[10/22]
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