蜃気楼の行く先 ※リクエストの為「土千」要素が含まれます
春風が吹いて、青々とした草が心地よさそうに揺れる。頬を撫でる温もりがのどかで、どこか浮世離れした空間だった。半歩前を歩く彼はいつも通りで、これが現である事を知らしめる存在のように思える。ふわふわと足元がおぼつかず、ゆっくりと辺りを見回せば、彼の話で聞いたよりも綺麗な小屋が見えた。その小屋の前には、ひらひらと風に乗って白い布や着物が躍る。
「……ほう。住んでいたか」
「この地の鬼、――雪村の里は滅ぼされた筈では?」
彼の声の方に顔を向けると、彼は“面白いモノ”を見たように口角を上げた。何の躊躇いもなく、自身の予測を疑う事もなく小屋の方へ足を進める彼に、思わず「千景さん!」と声を上げた。
「人間がこの地に迷い込む事は余程でない限り無い。つまり、“そういう事”であろう」
「違ったらどうするんです」
「俺の予測が外れた事があったか」
「私の性別でしょう。明かした時のあの顔、見物でしたよ」
「喧しい。貴様のその口は変わらんな」
この口があったから、貴方とこうしているんでしょう。そう口にしようとして、やめた。口喧嘩をしたいわけではない。ただ、この胸にあるのはどうしようもない、焦燥だ。もしも彼の予測通りの人物がこの先に居れば、彼女がひとりだったなら、恐らく彼は彼女を連れて帰ろうとするだろう。そうなれば、私は、紛い物と称されてもおかしくない身体で、未だ子を宿せていない私などお払い箱だろう。勿論彼がそこまで冷淡な人ではないと思っている。好かれている自覚が無いわけではない。この身に余るほどの愛情を受け、大切にされているとも思う。思うが、彼女のような存在が傍にいて、それでもなお私が寵愛を受けられる自信もなく、情だけで傍に置かれるのも、ひどく惨めだ。
そんな不安を口にする様な弱さも見せてしまえば、それこそ惨めだ。何を言うもなく、細やかな抵抗を示す様にそっと彼の袖を摘んだ。
「……どうした」
「いいえ。……人影が見えるなぁ、と」
「何?」と彼も小屋に目を向け、何の迷いも無く歩が進められる。薄桃色の綺麗な着物に、艶やかな黒髪。大きな目、白い肌。何処か大人びた雰囲気もあるが、あのころから変わらない可愛らしさ。――大当たり、だ。
雪村さん、と声を掛けようとする前に、「貴方は!」と明確な警戒心と共に声が向けられた。
「何をしに来たんですか!」
「……そう騒ぐな。危害を加えに来る程暇ではない」
「まぁ警戒するなという方が無理でしょうね。過去の行いですよ」
「貴様は何方の味方だ。夫を立てるという気はないのか」
「おや、妻に立たせてもらえないと立てないなんて初耳ですね」
「妻……?」
まるで異国の言葉を聞いたかのように、雪村さんはその大きな目をぱちくりと幾度か瞬かせた。その反応に対し、何故か千景さんは得意げに私の肩を抱き、「ああ。妻だ」と頷いた。
「おい千鶴!何かあったのか!――――」
おや、これは意外だな。ぐ、と肩を抱く手が強まったのを感じながら、目を丸めたのは私の方だった。現れた人物と、“千鶴”という呼び方。菫色の瞳と視線が交錯し、切れ長の綺麗な相貌が僅かに丸められた。
「……滅びた鬼の里の様子を見に来ただけだ」
「そうか。……千鶴。茶でも淹れてくれねえか」
「え?!は、はい!」
「少し昔話でもしようじゃねえか」
ふ、と土方さんが笑い、千景さんはゆっくりと頷いた。この二人が顔を合わせて、こんなにも平穏な事が未だかつてあっただろうか。これも戦が終わったから為せたことか。千景さんに視線を遣り、肩を抱いていた手を下ろさせると少し不機嫌そうな顔。流石にずっと抱かれているのも気恥ずかしいものがあるでしょう、と小さく伝え首を横に振った。土方さんは、私であることに気付いているのか、いないのか。通されるがままに和室へと足を踏み入れた。
少し沈黙が流れ、すっと入ってきた雪村さんが其々の前にお茶を置いた。私の事が気になるのだろう。ちらちらと視線を感じながら、ひとつ小さく頭を下げた。土方さんに視線を移せば、少し思案顔を見せて「後で呼ぶ」と一言告げ、雪村さんが部屋を出た。
「……久しぶりじゃねえか、椎名」
「おや、気付いていらっしゃったんですね」
「当たり前だろ。一瞬目は疑ったが、……」
「どうした?何か言いたそうな顔だな」
土方さんの聞きたい事は分かる。この組み合わせだろう。分かっているにも関わらず何も言わない千景さんに、良い性格をしているなと呆れた視線を送って、ひとつ溜め息をついた。これは恐らく、私に言ってほしいのだろう。
「……。一年前に、千景さんの元へ嫁ぎました」
「そうか、……って嫁いだ?!」
「話せば長くなりますが、今や椎名ではなく風間ですよ」
「……あの夜か?」
「……ええ、あの夜、千景さんの元へ。上手く誤魔化しはしてくださいました?」
「骨が折れたがな。総司は納得していなさそうだったぜ」
「嗚呼、それは想像できますね」
私の様子を察してか、土方さんはそれ以上何も問わない。何も聞かない。ただ私の姿を見て、ふ、と柔らかな笑みを浮かべた。
「人の嫁に見惚れたか」
「馬鹿。俺はガキにゃ興味ねえよ」
「ほう?では雪村の女鬼は別だったという事か」
げほっ、と、茶が噎せ、ごほごほと何度か咳き込めば「そんなんじゃねえ」と口に漏れた水滴を手で拭いながら土方さんは言う。ただ、と少し言いづらそうに言葉を続けるその目は、口こそ苦々しそうだがひどく穏やかなものだった。
「戦が終わって、これから先どうするかと思った時にあいつが連れてきたんだよ。何となく居心地が良くてな、昔話をしながら過ごしてるぜ」
「人は昔話が好きだな」
「千景さんも同じでしょう。土方さんの話をする時は殊更に口を緩ませたりして」
「貴様の目はいつから節穴になったのだ、紗良」
本当の事でしょう、と小さく笑う。最初の頃は、直接言葉にしないものの、あれは訃報だったのだろう。部屋に訪れ、どういう人だったか、どんなことがあったのか、遠回しに私に尋ね、ぽつりぽつりと私が答える。そうか、と千景さんが口にして、また少し昔話を続けていた。意外と不器用で優しいこの人は、直接知らせるべきか悩んだ挙句、ひとつひとつ思い出を「昔のもの」として整理できるような方法を選んだのだろう。
「……紗良」
「はい」
「千鶴も呼んでいいか。身を隠したいなら口裏は合わせてやる」
「大丈夫ですよ、もう身を偽る必要もありませんから」
私の言葉に、土方さんは少し目を丸めた。そして、私の意図を理解したのだろう。優しく緩められた瞳には安堵が浮かび、しかしどこか寂しそうに笑う。
「そうか。幸せなんだな」
「ええ、身に余るほどに」
「娘を嫁に出す親父さんはこんな心境なのかもしれねえな」
「おや、随分とお若い」
「おい何の話だ」
置いてけぼりにされた子供の様に、千景さんが眉を寄せる。嗚呼また嫉妬をしてくれているのだろうか。可愛い人、本当にかわいい人だ。
「そもそも私が性別を男と偽ったのは、存在してもいいとする理由を作る為です。理由は……話せば長くなるのですが、存在理由が欲しくて、彼女に男であると告げました」
「ほう、その必要が無くなったと?」
「ええ。だって、貴方が私に理由をくれたでしょう」
言わなければ分かりませんか?と千景さんの目を見て微笑めば、ふいと顔を背けられた。しかしその形のいい耳がほんのりと朱を指しており、人前でなければ触れていたのになあと惜しみながら、くすくすと笑みが零れる。そんな私達を見兼ねてか、土方さんがひとつ咳払いをする。
「……俺は千鶴を呼んでくるから、後は二人でやってくれ」
腰を上げ、襖に手をかけた土方さんが「そうだ」と言い忘れた事があると言うように此方を振り返った。
「紗良、泣かされたらいつでも来いよ。千鶴も俺も、お前なら大歓迎だ」
「一生離すつもりは無いが」
その言葉を聞き、くつくつと笑いながら「そりゃ安心だな?」と土方さんの視線は私へと向けられる。嗚呼もう、初めからバレていたのか。この地で彼女を見た時の私の焦りも、不安も、千景さんへの鎖も。私の存在理由は貴方であるなんて、傍から聞けば歯の浮くような台詞だが、それを敢えて今この地で告げたのは、彼を縛る為の言葉以外何物でもない。打算的な、彼が彼女を選ばないようにするための、そんな醜い私の嫉妬だ。
「あの様子だと、“雪村”の女鬼じゃなくなる日も近いのでは?」
「……紗良、いつになったら貴様は自信を持つんだ。その前にいい加減信用しろ」
「え?」
「俺はもう、貴様を離すつもりは無い。今後どんな女鬼が現れようと、俺が欲しいのは紗良一人だ」
私の手を取って、その指に柔らかな唇が落とされる。嗚呼、何だ。この人にももうバレていたのか。私の弱さも狡さも醜さも。それでもなお、この人は私を選んでくれるのか。純真無垢で穢れのないあの人じゃなくて、どろどろに汚れた私を、この人は欲してくれるのか。
「……まるで、永遠の愛を誓われているみたいですね」
「そういう意図で言っている」
「それは、知りませんでした」
ツンと目頭が熱くなるのを感じたが、絶対に泣いてやるものか。私の様子に気付いてか、そっと瞼に唇が寄せられ、人様の家ですよと窘める視線を送る。
「見られても構わぬ」
「私は構います。……千景さんこそ、そろそろ信用してください。私が隣にいたいと思うのは、千景さん唯一人ですよ」
結局私達は似た者同士で、目に見えぬ不幸せを恐れている。私は、彼がかつて欲した正統な女鬼の存在に。彼は、私がかつて欲した新選組という存在に。いくら太い鎖を巻き付けて、重たい鉛を乗せようが、いざとなれば断ち切っていかれるのだと分かっている。分かっているからこそ、怯えている。永遠なんてないのだろうと、来るかもわからない日に傷付く事を恐れて、信じられることを切望しながら相手を、いや、己を信じきれない臆病者だ。
蜃気楼の行く先
きっと幸せは手の中にあるのに、
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