桜とともに | ナノ


夕焼けの恋情が首を絞めた

月火水木金、一週間の内、学校がある5日間。その中でも私が苦手な曜日がひとつある。それが水曜日だった。月曜日は憂鬱、休みが終わった日だから。火曜日はちょっと憂鬱、苦手な科目が午後にあるから。木曜は少し元気になる、一週間の終わりが見えるから。金曜日はうれしい、次の日が休みだから。私の気分なんてそんな簡単に変わるものなのだが、苦手な水曜日だけは変わらなかった。放課後に近づくにつれ、私の心がざわついた。憂鬱なのではない、苦手なのだ。理由は至極簡単で、この重い足取りの先にあった。
職員室のドアを開け、用のある先生へと声をかける。

「原田先生、集めたプリントはどこに置けば?」
「ああ、悪いな。そこの机に置いてくれ。あとこの後予定はあるか?」
「……特にないとご存じでしょう」
「一応な。纏めたい資料があるから、手伝ってくれると助かる。先に待っててくれ」

全クラス分あるんだ、と困ったように笑う彼に、「結構時間がかかりそうですね」と軽く笑って職員室を出る。どうせあの笑顔に弱いのだ。そしてきっと、多分、恐らく、彼もそれを知っているのだろう。私が水曜日を苦手とする原因は、十中八九あの人にあった。毎週水曜日、原田先生の課題提出日。クラス委員になった私は課題を回収して、何故かそのまま何かの手伝いを任される。報酬は苺ミルクひとつ。好きな人と一緒に時を過ごせて、その上ジュースまで貰えるなんて贅沢ものめと言われてしまうかもしれないが、好きな人とずっと一緒にいる苦しさなんて、誰も分かりやしないのだろう。

資料室でひとり、椅子に座って積み重ねられた資料に目をやる。ご丁寧にホッチキスが2つ置かれており、最初から手伝わせるつもりだったかと苦笑した。苦しいのなら、断ればいいんだ。けれどきっと、断ったらこの黄緑色のホッチキスを、他の白い手が握るのだろう。可愛らしい唇で、可愛い言の葉を紡ぎながら、あの人に可愛い笑みを向けるのだ。誰か、知らない他の人が。パチン、と何も挟まず打った芯が床に落ちる。
幕末で想いを伝えられないまま、私はその想いだけをもって帰ってきてしまった。戻ってきたのは15歳、そして再会したのが16歳。会ってものの数分で、砕け散ったのだ。そもそも、あんな酷い別れ方をしておいて、覚えていてほしいと思う方が図々しい話だ。それでも拭いきれない恋心の首を絞め続けては殺せないまま、1年が経ってしまった。

「……酷い話」

こんなに苦しい思いをするのなら、いっそあの時殺しておくべきだった。不知火さんが、呼びに来なければ、私は彼への想いをありありと自覚せずに済んだのだろうか。ひとり、命の灯が消えそうになっている彼を見なければ、私のこの綺麗と言い難い恋心は、産声を上げることなく死んでいったのだろうか。
パチン、パチン。1枚ずつプリントを取って、一部の資料になるよう左上を止めていく。クラス委員になって半年も経てば、あの人がどのように資料を纏めるのかなんて分かりきってしまった。

「悪い、待たせたな。……お、もう纏めてくれていたのか」
「こんな感じで纏めていたんですが、間違いなかったですか?」

ああ、と真正面に座った彼が頷いて、形のいい綺麗な手がもう一つのホッチキスを手に取った。パチン、と無機質な音が二人分、広くない資料室の中に響いて、煩い心臓が一人分、私の中に響き渡る。

「悪いな、いつも」
「原田先生がここまで雑務を任せるなんて、一年生では知りませんでしたよ。後輩に教えてあげなくては」

くすくす、と冗談めかすように笑えば、目の前の彼がまいったな、と苦笑する。ああ、その顔も好きだな、と思うと同時、こんな穏やかな時間をまた過ごせると、あの時知っていたら私はどうしていただろうか、と考えても仕方のないことを思う。あの時、一人で雨に打たれていた彼が、またこんな風に笑えてよかった。幸せそうでよかった。本当に、良かった。良かった、のになあ。

「……いつ、ご結婚されるんですか?」
「は?」

パチン、と、小気味のいい音がする。聞かなければ良かった、いや、聞いてよかった。作業があってよかった。だってきっと、彼のことが好きで仕方のない私は、彼の顔を見ただけで、あの噂が嘘か誠かわかってしまう。この恋心を殺したいのに、殺せないまま甘んじた私は、最後の最後まで臆病者だ。

「この前の日曜日、沖田先輩のクラスの人が原田先生と若い女の人を見たとか。あそこのお店、婚約指輪たくさん置いているんですよね」
「紗良?」
「生徒同士のネットワークを甘く見ないほうがいいですよ。なんて、原田先生も分かってますよね。となると、もう報告間近だったのかなって」

はは、と笑みを繕ってみたが、情けない話、うまく笑えている自信がない。あれだけ笑うことは得意だったのに、この人の腕が、それを不得意にさせてしまった。

「ちょっと待て紗良、何を勘違いしてるのか知らねえが……先週の日曜だろ?昼から新八の酒に付き合ってた日だぜ」
「え?」

間抜けな声で、視線を挙げたのは私の方だった。ほら、とスマートフォンの画面を見せてくれて、そこに映っているのは酔って顔を赤くした永倉さんと、呆れたように笑う原田さん。ちょっと待ってほしい。じゃああの噂はどういうことだ。

「……別の日でした?」
「そんな相手いねえよ。どこの誰から聞いたんだ?」
「だって、三年生の間ではその噂が持ちきりだって……」

どこの、誰から。そうだ、私が噂を聞いたのはあの翡翠の目をした男からでしかない。藤堂さんと一緒に理科室に向かっているときに、三年の教室の窓から急にそういわれて、……。

「噂が広まったのは、あの日から……?」

そうだ、私も藤堂さんも初めて耳にする噂で、でもそんなこともあるのだろうなと、納得した。そこから頻繁にその噂を聞くようになった。何のために、と思ったが、どうせあの猫のことだ。いつもの気まぐれで吐いた冗談に過ぎない。問題はそれにまんまと踊らされた、馬鹿な女がいたということだ。

「……騙されましたね。すみません。……噂は撤回しておきましょうか?」
「いや、それは良い。俺に彼女がいようがいまいが、特に何も変わらねえだろ」

変わると思いますけどね。去年の卒業式も、何人かの女子生徒に告白されていたでしょう。そんなことを思いもしたが、何も言わない。この人に、今生こそは好きな方と一緒に幸せな夢を叶えてほしいと願う気持ちに偽りはないが、それが自分ではないということに、うまく諦めをつけられる程の出来た人間でもない。それに私がこの噂に歯止めをかけずとも、こんな噂で他の女性を牽制できるのは精々学内だけだ。せめて、この人に記憶さえあれば違ったのだろうか。いや、記憶があれば、あんな酷い告げ方をした女の前で、こんな風には笑ってくれないだろう。
変な噂に動揺してしまった気恥ずかしさと、いたたまれなさに、何も言葉を発せられないまま風だけがカーテンを揺るがした。アイボリーから透ける夕焼けは、季節の流れをいやでも私に感じさせた。夕焼け色の資料室の中の彼は相変わらず綺麗で、零れそうになる私の想いを、淡々と動かすホッチキスの音で消した。パチン、パチン、パチン。残りの紙に目をやった。あと三部程作れば終わり。今日の件について沖田さんに何か言ってやろうかとも思ったが、言ったところで何も変わらない。変わらないどころか、私が遊ばれるだけだ。
パチン、と最後の一部を綴じ、既に出来上がった資料の上に重ねようとした際に沈黙を破ったのは、原田さんの方だった。

「……なあ、紗良」
「なんですか、原田先生」
「いつから好きなんだ?」
「え」

それはあまりに唐突な質問で、いつもであれば「何がですか」とか、冷静に聞けた筈だった。だって原田さんは、「何を」とは一言も言っていないのだから。そんなことすら気付けなかったのは、聞いてしまった噂に動揺を見せてしまったこと、その噂で彼の“将来”が容易く想像できてしまったこと。とどのつまり、今日の私は心底“どうかしていた”のだ。資料を置く手が震えてバランスを誤り、ばさばさと白い資料が床へと散乱した。まるで私の頭のようだ、ぐちゃぐちゃで、何も考えがまとまらない。いつから?そんなものこちらの台詞だ。いつから、いつから気付いていたんだ。ああもういい。どうだっていい。どうせ今日終わらせるつもりだった恋心だ。自分の手で絞め殺せなかったものを、彼の手で殺してもらえばいい。こんな不毛な醜い歪んだ想いなんてものの息の根を止めてしまえばいいんだ。

「っ……昔から、ですよ」
「昔?」
「ええ、昔から。昔から好きですよ、“原田さん”は覚えていないでしょうけれど」

眉を寄せ、睨みつけるように彼を見上げた私の顔は、馬鹿みたいに情けない顔をしていることだろう。嗚呼、でも仕方ないじゃないか。あの時分には、そうするのが最善だったと思ったんだ。夕焼けが映る彼は、綺麗な琥珀の目を丸くしていて、今すぐこの首が落ちてしまえばいいとすら思った。床に散乱した資料をかき集めて、机上に置いた。殺されたいと思っていたのに、今ではここから逃げてしまいたい。嫌いだった水曜日は、きっともうこない。彼から用を頼まれる相手は、きっと私じゃなくなってしまうのだろう。
「すみません、今日は失礼しました」と早口に告げ、逃げるように資料室を去ろうとした私の手首を、捕らえる様に原田さんの手が掴む。熱い手だ、あの時何度も渇望し、縋り付いたこの熱い手にから、今はただただ逃げ出したかった。

「何か俺できっかけがあったんだよな、覚えてなくて悪いが……そんな昔からとは知らなかったぜ」

そして彼の反対の手から出されたのは、……いつもの、ご褒美と称された苺ミルクだった。

「……え?」
「いや、最初の礼がこれだったから自然と毎回苺ミルクにしていたんだが、そう毎回じゃ飽きるかと思ってな。それを総司に何げなく話したら、紗良はずっとこれを飲んでるって言うから」

余程好きなんだろうなと思って、それでいつから好きなのか聞いてみたんだよ。と、そんな経緯をあっさりと彼は口にする。ああ、なんだ、つまり、そういうことか。

「……奇遇ですね。……噂を、私に伝えたのもその人ですよ」
「そうなのか?」
「受験生なのに暇な人ですよね。…………ちょっと剣道部に寄ってから帰ります。いつもありがとうございます」
「あ、ああ。俺こそ助かったぜ」

いつものご褒美を受け取って、にっこりと笑って頭を下げた。「さよなら先生」「ああ、気をつけてな」といつも通りの挨拶を交わし、その足で剣道部へと向かう。最近受験勉強で斎藤さんが構ってくれないだとかで文句を言っていたのは知っている。ただ、こんな悪趣味な遊び方を人でするのは如何なものか。何年経とうが生まれ変わろうが、人の性質とは何も変わらないのだろう。

■□■□
纏められた資料を手に職員室に戻ると、“あの頃”から変わらず眉間に皺を寄せた土方さんがコーヒーを片手に紙を睨みつけていた。白い紙には無駄に上手い落書きが書かれていて、それだけで誰のものかが分かり、思わず笑ってしまった俺に菫色の眼光が向けられる。

「なんだ原田」
「いや、総司も飽きねえなと思ってよ。土方さん達も変わらねえなあ」
「変わらねえのはお前達もだろうが」

手に持っていた資料を机に置き、何の話だ?と惚けて見せる。

「椎名だよ。別に毎週あいつにだけ用事を頼まなくても、他のクラス委員で良いだろうが」
「まあ、そうだな。でも紗良が一番丁寧だから、ついな。別に贔屓するつもりはねえから大目に見てくれよ」
「大目に見てるじゃねえか、椎名が卒業するまで“隠す”つもりなんだろ?別に節度を守ってりゃ人の色恋沙汰に口を出す程野暮じゃねえよ」
「…………。いつから気付いてたんだ?」

俺の問いかけに、土方さんはしれっと「見てりゃ気付く」と答えた。土方さんの言う通り、記憶なんてとっくに思い出している。ただ時代が悪い。あの頃は年の差も立場も何も問題なかったが、今は先生と生徒、成人と未成年だ。記憶がある、あいつに対する想いは変わっていないなんて告げたら、俺の歯止めが利かなくなるのは自分でもわかっていた。だから卒業するまで何も言わず、“良い先生”として傍にいるつもりなんだが、今日は本当に危なかったと我ながら思う。前世から惚れている女が「片想い」をする様子を間近で見ている趣味の悪さは認めるが、あんな風に想いをぶつけられて、抱きしめなかった俺を今日だけは褒めてやりたい。それもこれも、全部“噂”を伝えて、俺に「いつから好きなのか聞いてみてくださいよ」と意味ありげに提案した奴のせいではあるんだが。

「……なんだ原田、何か良いことでもあったのか?」
「いや、良いことというかだな……土方さん。総司に、大人を試すのも、後輩で遊ぶのも程々にしとけよ、って伝えておいてくれねえか?」

俺が言っても何も聞くわけねえだろ、と重々しい溜め息を吐かれながら、来週の水曜は何を頼むかと思いを馳せた。

夕焼けの恋情が首を絞めた


  噂が真に変わるまで一年半、


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