朧月夜の戯言 優しい、と、思った。薄い雲が膜を張り、月の輪郭が朧になった夜の空は優しくて、嬉しいような、寂しいような。何と形容すれば良いかも分からない思いに浸され、窓の額縁に頬を寄せた。ゆるやかに動く雲を眺め、ふと何を思い立ったのか、私は月へ、ゆたりと手を伸ばす。嗚呼そうか、今日の空は、きっとぬるま湯に似ているのだ。
客の来ない島原の、時の流れはひどく緩やかなものに感じる。客が来ない、といえば語弊があるか。私の用が済んだだけだ。潜入調査、そして男の身であると言う事情だけに、君菊さんは当たり前だが私を必要以上に別のお座敷に上げたがらない。だからこそ必要な用が済んでしまえば、私はこうして、空いている部屋で″椎名紗良″に戻る。島原の女ではない。かといって″私″でもない、″藤堂平助の弟″に戻る。重たい着物に、始めの頃に比べて慣れはしたものの、疲れないわけではない。いっそ脱いでしまいたいが、脱ぐ事さえ億劫だ。
今宵は雪村さんが居ない。私が、私の客の為にこの場にいるに過ぎないのだ。窓枠から顔を出していた私を、一目見ただけで酷く気に入り、ただ隣にいたいと定期的に通う客がいる。律儀に指一本触れない人。あまつさえ、綺麗な装飾が施された贈り物までも。良いところの人なのか、羽振りの良い客は店にとって有益以外何者でもない。だからこそ君菊さんは、リスクを犯しても私を潜入調査以外の名目で″此処″へ呼ぶ。
「月にでも帰る気か?」
久方に聞いた声が鼓膜を靡かせ、ぱたりと腕を落としつつ、もう声の主へと顔を向ける必要はない事に気付く。今宵の″紗雛″は店仕舞だ。近付く足音にもそ知らぬ顔をしてやれば、襟を後ろに引かれた。流石に声の主へと向けた目に、映る眉間の皺は刻み込まれたものか、それとも私のせいか。
「おい。聞こえねえふりしてんじゃねえよ」
「これは失礼。剰りに夢事の様な台詞を吐くから、何処かの″お兄さん″かと思いまして」
「ったく、ただの冗談だろうが。真に受けてんじゃねえよ」
「私だって冗談ですよ。真に受けないでください」
双眸を細めてそう告げれば、呆れたように溜め息を吐いて土方さんが隣へと胡座をかく。もう着替えるつもりだったとは云え、襟が乱れれば少し落ち着かず、すっと後ろ手で形を整える。その動作をまじまじと眺めながら、「化けるもんだな」と彼は言う。
「少し慣れてきやがったか」
「お陰様で。色街でも有名な土方さんに、手取り足取り教えていただきましたからね」
「俺が、いつ、何を、教えたって言うんだよ……!」
「それを私に言わせます?野暮な人ですねぇ」
くすくす。まだ鮮やかに縁取られた口紅を、華やかな袖口で隠しながら、うすらと笑みを浮かべて再び月へと目を向ける。月に手を伸ばすのは終いにしよう。どうせ届くものでもないのだ、月に行きたいと願いながら、人類が月へと降り立てるのはずうっと先の話だし、降り立った月はあんなに綺麗なものではなかったのだから。
「……なんだ、何か見えんのか?」
「いえ、そう云うわけでは、ーーーー」
ふ、と風の揺らぎを感じ襖の方へ目を向ける。隣の彼の方が早くに反応したらしく、ぴり、と確かな殺気が肌を這う。此処は使われていない空き室だ。酔った客が万が一紛れ込んだとしても、こんな物音を立てずに近付ける酔っ払い等居るはずもない。「誰だ」と地を這うような低い声で土方さんが尋ねると、白い着物に赤と黒の襦袢が見えた。
「ふん……流石は幕府の犬。鼻が利くではないか」
「風間……てめえ何しに来やがった?」
「貴様等は直ぐに生き急ぐ。無闇に剣を抜くなど、愚行極まりない」
土方さんの殺気が強くなる。しかし、この男の眉ひとつ動かせない事はとっくに分かっている。鯉口に手をかけている土方さんとは反対に、一切刀に触れる気配がない辺り、本当に今斬り合うつもりはないのだろう。
「……構って欲しいなら素直にそう言えば良いでしょう。生憎、もう″紗雛″なら店仕舞ですよ」
「相変わらず生意気な口を利く奴だな、椎名の男鬼よ。……いや、その姿だと″女″鬼か?其れ程までに俺様に気に入られたいとは、愛い一面もあるものだな」
「うわー!聞きました?!この自信過剰なまでの勘違い!怖いなー!」
「違う」
「は?」
何が違うんだ。そう言わんばかりに眉を寄せて怪訝そうな面持ちを彼に向けると、呆れた様子で溜め息を吐かれる。
「相変わらず失礼な人だな!上品な俺に会いたいなら紗雛してるときに来てくださいよ!」
「喧しい。そう言う事を言いたいわけではない、が。其の格好をしていて其の言葉遣いは賢明ではないのではないか?見知った客に聞かれて不都合なのは貴様だろう」
「……。十中八九、店でしょうね!別に俺としては困る事は何もありません」
とは言え、店に迷惑をかけて良い事など一つもない。何か御用ですかと尋ねれば、彼は何を言うでもなく当然の顔で部屋へと立ち入る。後ろ手で襖を閉めれば、私の正面に足を進めた。
おい、と制止の意で土方さんが声を掛けたが、どうも風間さんの様子が可笑しい。感じるのは侮蔑でも嫌悪でも、敵意でもない。其の様子に土方さんも怪訝な表情を向けつつも、その手は未だ鯉口から離れない。
風間さんは、ただ私の顔を見下ろしていたかと思えば、すっと膝を曲げて私の目線と自らのを合わせた。
「貴様は誰だ」
「……嘘でしょ?!こんなに話して俺の名前を覚えていらっしゃらない!」
「相も変わらず五月蝿い犬だな。駄犬か。駄犬」
「あっそれ沖田さんがよく口にする言葉ですよ。俺は言われた事ありませんけど」
「至極どうでも良い。――貴様ですら分かりやすいよう問いを変えてやろうか?"俺に見せている"、貴様は誰だ」
「、」
静かに息を飲んだ。落ち着け、僅かでも出した動揺を見過ごす程この人は鈍くないし、甘くない。はは、とそう遅くない反応速度で笑いを溢した私より先に言葉を発したのは、土方さんの方だ。
「そりゃあ仲間と敵なら見せる顔も違うだろうよ」
さらりと告げる言葉には一転の迷いもない。取り繕う場数なら私も踏んできた筈なのに、踏む場数の重さや背負う重たさが違うとこうも違うか。それに私は、今宵の月の様な微温湯に浸りすぎたのだろう。以前の私であれば、こんな下手は踏まなかった。外ならば、誰かに見つかる極一寸の可能性をも危惧して"藤堂平助の弟である椎名紗良"の仮面を外さなかったのに。
「ほう?此奴からは敵意など感じんがな。感じるのは喧しさと警戒心くらいだ」
「だって風間さん直ぐ俺に手を出そうとするから」
「戯言に決まっているだろう。馬鹿め。──いや、待て。しかしそうか。貴様は」
「オーケィ!ストップ!分かった!何やら盛大な勘違いをしていそうだね?!」
言うな、言わないでくれ。これ以上自らの過ちや不甲斐なさを見つめたくない。甘い考えであることは百も承知だが、この鬼に、この人に、一度でも見破られてしまうと──。焦燥感が滲む私の表情はさぞかし滑稽な事だろう。だからといって言葉を止めるほど、彼は人を気遣いタイプではないんだ。
「幾つの"顔"を持っている?」
「──」
「普段の顔、紗雛の顔、そして先程の顔……なぁ、椎名の鬼よ。今になっては、貴様が普段俺に見せている顔も本心かは解らぬな」
聡い人だ。少しでも隙を見せれば全てが見抜かれる事は解っていた。解っていたからこそ、最後の確信までさせたくなかったんだ。
華やかな模様に彩られた袖を口許へと遣り、軽く眉尻を下げる。悪いが、"こういう"場数であれば踏んだ経験は少なくない。親だって馬鹿じゃない。最初の内は、私の違和感にも気付いたのだろうが、嘘が染み付き本音と混合してしまえば親ですら私の仮面には気付かなかったのだから。
十年以上育てられた親を、数年もの間、欺き続けたんだ。
「やっぱり、未だバレますか」
「なに?」
「土方さんに、島原に潜入するのであればいつもの"顔"では到底駄目だと言われてから、これでも練習していたんですがね。かといって、ずっと紗雛の顔でいるとお姐様方から距離をおかれ情報が仕入れづらくなる。なので、紗雛の顔と、紗雛の仕事終わりの顔。この二つをうまく使い分けろと」
「はっ、こいつが騙せたのなら上等だろ。少なくとも、猫を被っているだけだと思われなかっただけ及第点だ」
「副長命令の任務は手厳しいですね。それなら満点欲しいくらい」
「それは見知った顔を見ても動揺しなくなってから言え。ったく、直ぐに素に戻りやがって」
「見知った人に見られると恥ずかしいでしょ!」
「馬鹿。他の妓に聞かれたらどうする。さっきから煩えんだよ」
直ぐに此方の意図を汲み、判断して合わせられるあたり、新選組の鬼副長という異名も伊達じゃない。嗚呼、この人も聡い人で良かったと僅かに安堵しつつ、くすくすと先程とは違い控えめな笑みで方を揺らす。
「ほう……?貴様等、俺を誤魔化せるとでも思っているのか?」
「お兄はんこそ、御自分が認めるものだけを真実やと思わはったらあきまへんえ?」
「……なんだと貴様」
「貴方がどれだけ黒く塗ってるだけで白い鳥だと言おうと、鴉の持つ羽が黒い事実は変わらない。真実は貴方のお心ひとつで変わるものじゃないって事ですよ」
妖艶な笑みで柔らかい言葉遣いの紗雛を見せて、先程見たという"私"でくすくすと楽しげに笑ってあげて、極めつけに彼がよく知っている"紗良君"の表情で「どうだ、板についてきただろう」と誇らしげに彼を見た。
すると、最初こそ怪訝そうに眉を寄せていた風間さんは面白いと言うようにくつりと笑った。
「……騙し騙されでできた浮世の色が解ってきたみたいだな。まぁそれも一興か……面白い」
風間さんが私の顎に指を掛けて軽く持ち上げ、深紅の瞳が私の奥を見透かそうとするかのように食い入ってくる。
「こいつに触ってんじゃねえよ」
不機嫌そうな、平隊士が聞くと逃げ出しそうな声をした主を見遣ると、深く刻まれた眉間の皺を隠す事ない菫の瞳。そして綺麗な顔からはあまり想像もつかないくらい逞しい腕は、がしりと風間さんの手首を掴んでいた。
「そんな一発触発な雰囲気を出さなくても、大丈夫ですよ。これくらいはお客で慣れました」
「「こんな事に慣れるな」!」
そこは重なるのか。しかも、その"こんな事"をまさに今しているのは風間さんだろう。二人から叱られ不本意そうな私の表情を見てか、口角の端を上げて風間さんは私から手を離した。ひらひらと先程まで掴まれていた手を揺らし、私を見遣る。
「酒でも交えれば更に別の顔が出てきそうだな、椎名の鬼よ。……おい、幕府の犬。貴様も来い。こんな処で刀を抜く程、貴様も馬鹿ではないだろう」
「え。俺もう仕事終わりましたから帰る予定なんですが」
「妓の"終わり"が夜の内に終わると思うなよ?座敷に上がれ。店主なぞ金を握らせれば文句も言わぬ」
何やら楽しそうな風間さんの顔を見て、これは何を言っても聞き入れてもらえないだろうと観念して溜め息を吐く。土方さんが「また面倒な男を引っ掻けやがったか……」と小さく呟いて頭を掻いているのを見遣りつつ、「仕方がない」と切り替えれば、すっと紗雛の表情に戻す。それを見て、土方さんが私の背をぽんと叩いた。すっと隣に寄れば、風間さんはまた機嫌が良さそうに笑みを浮かべた。
「貴様の羽が白いのか黒いのか、一度見てみたいものだな」
「あら、赤とか出てきたらどうしはりますの?」
「なんだ。貴様あの態とらしい郭言葉は止めたのか」
「意地の悪い事言わはりますなぁ。あないな言葉、仕舞いどす。それにしても、風間はんと土方はんが同じ席でお酒を飲みはるなんてなぁ。明日は雨やろか」
私の頭上で視線を合わせた彼らのなかでは何か通じ合った事があったのだろうが、そんな事、今の私には然程気にすべき事ではないだろう。乱闘を起こさないのであればそれが一番だ。しかしまぁ……沖田さんが以前、土方さんの酒癖が悪いと言っていた気がするので、それが気がかりではあるが。
「単に、貴様の羽がどちらの色をしているのか知りたいだけだが?」
私を見てそう告げる風間さんの意図は解らない。嗚呼、今日はなんてぬるま湯に浸るような日なのだろう。ゆたりと流れる時間が、この街の夜の長さを教えるようである。そんな夜は、もうなにも深くは考えず、紗雛としてころころと笑うだけなのだ。
朧月夜の戯言
微温湯の眠りから出たくないと切に願うのだ、
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