春眠暁は見えない
戸を開けば、しとしとと静かに雨が降っているのが分かった。ああ、今日は雨の日か、通りで少し肌寒いわけだと目を細めれば、洗濯物をする必要がなくなったのを良いことに眠りについたままの彼の傍に戻る。雨の日は嫌いじゃない、その思いは彼と結ばれてから殊更に強くなった。雨の日は雨雲が太陽を隠してくれているからか、羅刹となった彼の調子が普通の晴れ間に比べれば良いらしく、昼間でも共に笑えることが多い。
くぁあ、と口許に手を翳したまま欠伸を漏らす。彼の生活に合わせるために昼夜逆転した私の体内時計は未だに強い眠気を訴えていた。そうだなぁ、雨のせいで洗濯物も干せないから、もう一眠りしてしまおうか。ああけれど、彼も昼間に起きるかもしれないという可能性を考えれば、昼餉を用意するべきだろうか。そんな事を考えながら、しかりと芯をもった彼の髪に幾度か指を通す。んん、と声を漏らした彼に起こしてしまったかとも思ったが、これくらいで起きるわけもないかと鷹をくくり、短くなってしまった髪を、さらさらとまた撫でる。こんな静かな時間を過ごしていたら、やはり二度寝に入りたくなってくる。まぁ少しならいいかと思い、だらりと伸ばされた彼の腕を片方持ち上げて、そのまま抱かれるように腕の中に収まった。ああやはり、この人の温もりは良い。すん、と鼻先を寄せればここ暫くお日様には当たっていないのに、お日様の匂いがするように思えた。
「んん……、紗良……?」
「おや、起こしてしまいましたか」
どちらかと言えば滅多に起きない彼なのに、昨夜の眠りが浅かったのだろうかと覗き込めば、まだ眠気の残った目と視線が交わる。おはようございます?と疑問口調で小さく笑えば、「まだ眠い」と抱き直された。こんなこと、以前は目があった瞬間すぐに顔を赤くさせ焦っていたと言うのに、慣れたものだなぁと笑みがこぼれる。それどころか、今では私の方が"らしくない姿"を晒さざるを得ないときがあるのだから考えものだ。
とくん、とくん。と、心音が私にまで伝わってきて、その音がまた私の心に安心をもたらしてくる。昨夜、未だに残る吸血衝動が収まるまで抱き締めていた身体に、今度は私が抱き締められる。それがとても心地よく、ゆらりゆらり私の眠気を誘う。
「……平助さん」
「んー……?」
「今日、雨ですよ」
「……そっか」
いつの間にか変わった呼び名にも、彼はもう驚かない。それに嬉しさを覚える私も、大概あの頃よりも変わったのだろう。
がたがたと戸が鳴る音がする。風が強くなってきたのだろうか、嵐が近づいているのかもしれない。風は嫌だな。彼と結ばれてから曇天を好きになったのとは対照的に、風に怯えるようになった。音が怖い訳じゃない。嵐が怖い訳じゃない。風が、彼ごと拐いそうなのが怖いのだ。
(だって風は、灰にいとも簡単にさらってしまう)
あの日彼の涙を拭った指は、今の彼の着物を縋る様に握りしめた。行かないで、行かないで。傍に居て。いつから私はこんなに臆病になったのだろうか。
「……紗良、大丈夫だよ」
わたしの指の震えに気づいてしまったのか、落ち着きのある男の声が頭上から落ちてくる。そのまま、ぽん、と彼の手が私の背を叩いた。以前は反対だったのに、いつの間に私は守られる側になってしまったのだろう。
「まーた変なこと考えてるだろ?」
「う、」
沖田さんがよくしていたように、背にあった彼の左手が私の右頬をつまみ上げる。変な顔になるからやめてくれませんかと言うように眉を寄せると、変な顔と歯を見せて笑う彼の顔。起こしてしまったかと僅かに罪悪感を覚えながらも、しっかりと映る青緑の瞳に安心した。
「何考えてたんだよ?あ、何でもないは無しだからな?」
「……」
「紗良」
「……、……弱く、なったなぁと」
「誰が?」
「わたしが」
なんでもないと言うつもりだったが、先に逃げ道を塞がれてはどうしようもない。つこうと思えば嘘をついて虚勢を張ることは容易いけれど、促すように私の名を呼ぶ声はそれを許しやしないのだろう。
「守られてばかりは嫌だったのに」
「……ばかりじゃねぇだろ」
「ん?」
彼の左手がするりと私の頬を撫で、涙をぬぐうような動作で私の目元を指で擦る。
「やっと、支えあえてるって気がする」
「……前までは?」
「紗良が弱いとこ見せてくれねぇから、かなり悔しかった!」
感情を隠すことをしないところに、相変わらずだなと笑みをこぼす。そして、彼のこういうところが好きなのだと改めて実感する。喜怒哀楽のすべてを隠してしまう私とは違い、喜怒哀楽のすべてを見せてくれるところ。そういうところが、好きで好きで仕方ない。
「……ありがとな」
「?……何がです?」
「こんな俺の傍に、まだいてくれて」
私の頬を撫でていた手が、ほんの僅かに震えていることに気付いて彼の手に自分のを重ねる。
私の目に映る太陽は太陽で、月は静かに輝く月のままだ。間違っても私の世界には、黄昏は夜明けに見えやしないし、月も太陽として存在しない。きっと私は死ぬまで、いや、死んでもずっと、彼のみる世界を理解は出来ないのだろう。それは確かに寂しいけれど、それでも彼は未だに狂わずに、私の傍らで人間と同じように笑い、人間と同じように泣き、人間と同じように呼吸を繰り返し、人間と同じように、鼓動が脈を打つ。当たり前の事だろう、だって彼は人間なのだから。
(――それなのに貴方は、未だに自分を化け物だと言う)
これほどまで人間らしいことを言うくせに、肝心なところでそうやって壁を作るのは貴方の方だ。その壁はおいそれとは越えられず、どの言葉も鋭利な刃としてあなたの心にひどく突き刺さり、沈んでいきそうで、薄く開いた唇を横に結んだ。その代わりに、もぞりと頭を緩く彼の胸元に擦り寄せて、そこでやっと声が出た。
「……傍に居ると、約束しました」
「うん」
「これからも、傍にいます」
「……うん」
「あなたが、独りで泣かないように。そして私も、……」
「紗良も?」
「私も、もう、独りで泣かずに済むように」
昨夜吸血衝動に苦しむ彼の身を抱き締めていた身体が、今は彼に抱き締められる。落ち着かせるため、安心させるために何度も繰り返した大丈夫という言葉が、今度は私に向けられる。
大丈夫、大丈夫だから。まだ、傍に居るから。これからも、傍に居るから。
彼の、守れるかどうかすら曖昧な約束をいとも簡単に口にするところが好きだ。その曖昧な未来はまるでぬるま湯で、けれどひどく安心してしまうのは、彼が口にした言葉だからなのだろう。
「カッコ悪いって思うかも知れねぇけど、俺さ、泣くならお前の傍がいいんだ。そんで紗良が泣くのも、俺の傍がいい」
「……おや、奇遇ですね。私もそう思っていたところです」
雨の日の部屋の中はいつもより薄暗く、その中で今だ布団にくるまったまま彼の瞳と目を併せ、ふたりでくすくすと笑い合う。まるで秘密事を作った子供のようにら肩を揺らす。どちらが先だったか、それとも同じか、「好きだよ」という言葉が音になって部屋に落ちたとき、頬に赤みがさした貴方の表情がとても愛しくて仕方なかった。
ほら、雨の日も決して悪くはないでしょう?
春眠暁は見えない
これ以上ない贅沢です
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