弱虫の花束 「お出掛けですか?」
「紗良さん」
夕日が沈み始めた頃、玄関の戸に手を掛けた彼に後ろから声をかけた。その声に振り返った彼の表情は、あの頃に比べ"穏やか"という言葉が似合う。「少し買い物へ」と彼が柔和に笑い、「お供しても?」と尋ねかけたら、彼はいつもとは違う反応を示した。
「今日は……、少し」
おや、珍しい。いつもならば、勿論、と柔らかく双眸を細めてくれるというのに。こういうとき、既に戦から離れて幾月も経つと言うのに、脳裏に嫌な考えがよぎってしまう自分が嫌で仕方ない。別に彼を信用していないわけではないのだ。ただ、彼が一人で何かを行うことに、未だ不安を感じてしまう自分がいる。この人は、決めてしまうと誰にも相談せず貫いてしまうから。
私の考えが伝わってしまったのか、「そんな顔しなくとも、何も企んでいませんよ」と彼は言う。
「……心配してるんです」
「?私が何かを企んでいるのではないかを、ではなくてですか」
「それだと"疑う"の方が適当でしょう?そうではなく、貴方が何か、また一人で決めて、どこかへ行ってしまおうとすることがです」
この人の隣を歩けているかと問われれば、私はまだ自信を持って頷くことができない。この人はきっと、自分で決めたことがあって、それに関して私が邪魔な存在と判断すれば直ぐに切り捨てることができるだろう。そういうところは、沖田さんとよく似ている。自惚れでなければ、彼がまだ私を切り捨てていない理由は、きっと"恋情"であろう。けれどそんなものも、いつ途切れるかが分からない。きっと彼の決心を前に、そんな脆い感情はなんの枷にもならないのだろう。……私と、違って。
そんな私の想いを知ってか知らずか、彼は困ったように笑うのだ。
「時には、一人で決めなければいけないこともあるんですよ」
――あなたの場合、それが大半のくせに。
そんな恨みがましい言葉は喉の奥に転がして、そうですか、と小さく手を振り見送った。あの目をした彼は、てこでも動かないことを私は既に知っていた。私ごときの存在の言葉に、耳を傾けることもないだろう。悔しいか悔しくないかで言えば前者だが、こればかりは惚れたもの敗けだ。置いていかれそうになるのならば、這いつくばってでもついていけばいい。ああけれど、他の女性へと情が移ってしまった場合はどうすればいいんだろう。その時は私が身を引く以外、取るべき行動が見当たらない。
彼の名前を呼んだところで、人のいない玄関は、何も言葉を発しなかった。
□■
紗良さん、と柔らかな声が降りかかったのは彼が出掛けて数刻経った後だったか。私には一刻二刻では足りない気すらするのだけれど、きっと実際はその程度の時間しか進んでいないのだろう。まあるい月は既に夜空で微笑みを浮かべており、取り込んだはずの洗濯物は何一つとて綺麗に整うことを知らなかった。眠っていたのですか?と笑みを含みながら彼は問う。そうではない、そうではないのだ。貴方が帰ってこないのではないかと、そればかりを考えて、いくら声をかけても気付きやしないからと、月が私を置いていったのだ。
「……おかえり、なさい」
「ただいま、紗良さん」
にこりと微笑んでくれる彼を見て覚えるのは、安堵の他何者でもない。この方の笑顔に何度安心を覚え、何度畏怖したことだろう。そして何度、不安を覚えたものか。この人の嘘の隠し方はあの翡翠の目をした彼と似ていて、彼よりも、狡い。
(あの人は目で雄弁に放っておけと語るけれど、この人は、柔らかな態度で人を拒む)
そしてあっさりと、切り離す。
それが恐ろしくて、情けなくも怖くて、私は今日の外出の理由も、行き先すら知ることができないまま、夜が朝に殺される色を知るのだろう。逃げることを覚えた人間は、極端に卑怯になる。
「……夕餉、召し上がるでしょう。今日の煮付けはいつもよりも上手く、」
「紗良さん」
逃げるよう腰を被せるようとした私に被せるように呼ばれた名が、私の知らないものならどれだけよかったろう。しかし彼の呼ぶ名は、透明の水のように私の耳に染み込んで、鴬色の着物から伸びた手を捕まれたわけでもないのに、私の身はいとも簡単に動きを止める。
「貴女は、また聞かないのですか?」
「……何をです?」
「今日の事です。何処へ行ったのか、とか、何をしていたのか、などを」
「……」
「紗良さんはいつも、一人で完結させてしまう」
「それは、」
貴方の方じゃないか。零れそうになったその言葉を、グッと喉奥に転がした。そんな私の動作をも見透かして、彼は静かに「ほら、また呑み込む」と告げる。
「貴方は、知らないから言えるんです」
「何をですか?」
「惚れたものが、切り捨てられることにどれ程怯えるか」
私にはもう、貴方しかいないのに。
そんな、頭の弱い女のような言葉を、まさか自分が口にする日が来るなんて想像もしなかった。せめてものプライドから、涙だけは流すものかと眉間に力を込める。彼が、あの頃の私に恋をしたのだと言うのなら、あの、恋など知らぬ人形のような私に恋をしたと言うのなら、こんなにも泣かせなく落ちぶれた女には興味を無くすに違いない。
嗚呼だから、嫌だったんだ。
しかし彼から出た言葉は、とても予想外のものだった。
「良かった……」
彼にしては随分と気の抜けた声色で、それに吊られるように腰をおとした私に、そっと額が合わせられた。
「私ばかりが、貴女を想っていると不安だったので」
不安、などというように、彼は子供じみたことを口にするようになった。それは私に対する甘えなのかと自惚れを抱いたのはいつ頃だったろう
「……想っていなければ、此処までついてきたりもしないでしょう」
「同情を寄せられているのか、と」
「同情ひとつで共にあるほど、お人好しではありませんよ」
そのようですね、と彼は何処と無く嬉しそうに微笑めば、私の手の内にそっと、縦に長い木箱をおいた。
「これを、買いに行ったんです。これだけは一人で決めたくて」
その木箱には一羽の鳥が細く掘られており、その美しさにそっと表面を指の腹で撫でてみた。これは?と問う様に彼へと目を向ければ、開けてみてください、と優しい声が彼の舌を滑り落ちる。
箱を開けると、そこには控えめで、けれど凛とした美しい装飾が施された簪が鎮座していた。「これは?」と尋ねる私に「簪ですよ」と解りきった答えを返す彼は、きっと私自身に考えてほしいことがあるのだろう。
「男が女に簪を送る意味を、知っていますか?」
「……申し訳ありません」
僅かに眉を下げ首を横に振ると、いいですよと彼は微笑む。けれどその笑みは、簡単に答えを教えてくれるような笑みではない。
「考えてみてください。そしてその答えが解ったとき、私に答えをいただけませんか」
はい。と返事を返した私に「それでは夕餉にしましょう」と立ち上がった彼の表情は、まるで何事もなかったかよようにいつも通りだ。変若水も、戦乱の世も、辻斬りも、なにもない。その表情に思うのは、不安でも焦燥でもない。暗い闇夜に浮かぶ月ではない、冬の夕頃のような穏やかな空の様なものだった。
数日後、その簪をつけて街に出た私は意味を知り、柄にもなく赤くなった顔を彼に晒しながら頷いた。
弱虫の花束
どうか私と共にいてくれませんか
※当時、男が女に簪を送るのは現在で言うプロポーズだそうです。
[20/22]
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