いつかすべてを手放すとて 最後の戦は想像を絶するほどに過激なもので、私が生きているのも不思議なくらいだった。戦の最中に負傷し地に伏せていた私は、幸いにもこの呉服屋に拾われ、長年子供に恵まれなかった夫婦の娘として置いてもらい、はや一年半が過ぎた。
「ただいま」
「おかえり。……最近元気がないようだけど、大丈夫かい?」
「……大丈夫だよ」
"警察官の藤田五郎"。何も、無愛想ではあるが勤勉で真面目な男なのだと、そんな風の噂を小耳に挟んだのが二月前。まるであの人に似ているなと思っていたものの、名も違えば会津ではぐれたあの人が江戸にいる筈がないと鷹をくくった。そもそも、生きているかどうかすら怪しいものなのだから。
そんなある日、"父親"から頼まれた品を届けるために、少し離れた目的地までの道のりを歩いていたとき、大通りを曲がった先に見えた人物に、あの人を見つけたのだ。見間違えるわけもなかった。ただ向こうはどうだろうかとも思った。あの時とは違い髪も伸び、同じ袴と言えど、大正ロマンで綺麗に着飾っているのだから。
けれど、あの人は鋭い。なぜか私を見破るのがうまかった。そして、あの人を前にして自分が平静を保てる自信はと言えば、ゼロにも近かったのだ。生きていたんですか、と駆け寄りたい、どうしていたのかと尋ねたい。まさか江戸にいたなんて思いもしなかった。しかしこの情勢は私にもわかってる、新選組が、この世間でどういった存在なのか。私ですら名前を伏せているのに、そんな彼の前に私が現れて良いわけがなかった。
(それでも、声が聞きたいと、触れたいと、思ってしまう)
しかし彼の隣を歩く同僚の言葉に、私の足は縫い付けられたように動かなくなった。
「藤田、今日も真っ直ぐ奥さんのとこへ帰るのか?」
「いや、――」
"奥さん"。それが何を指すかなんて嫌でもわかる。無理もない、寧ろ独身のままでいる方が違和感だ。表情を見られないよう、私は走って彼らの横を走り過ぎたのは、今から一月前のこと。
それから家を手伝って、私は小遣いとして貰ったお金を貯めたのだ。今更祝儀など、と思うかもしれないが、私にとってはけじめのようなものだった。普通の人と同じように幸せになった彼への、けじめだったのだ。そうして今日、警視庁へ向かうと幸い彼は巡察に出ており、加えて前に彼と歩いていた警官を見つけたので、その人に祝儀を預けて帰ってきた。
巡察から帰ると一人の女と一瞬だけすれ違った。
「お、藤田!もう少し早く帰ってこいよ!見事なすれ違いだな」
同僚の者から一通の封筒が渡され、無茶をいうなと受け取ったものの、心当たりもなく首を傾げていれば、封筒にはありありと"御祝儀"の文字がある。直接渡さない礼の欠いた行為に眉をひそめつつ、参ったな、と頭をかいた。
「にっくいねぇ!恋文か?」
「いや、祝儀だ。しかし……」
「あー……そういや前に巡察していたとき言ってたな。あん時は知らずに好き勝手言ってすまねえ」
「それはもういい。しかし誰から……」
「そうそう!それが大通りに面した呉服屋の娘さんなんだよ!」
そんなに有名なおなごなのかと首を傾げていれば、同僚からは信じられないというかの様な顔が向けられた。
「あの呉服屋が越してきた頃から、愛想よし器量よしって近所では評判だぞ?」
「生憎俺はそういった類いに興味がないのでな」
「かーっ!色男の癖に勿体ねえな。嫁に狙ってる男も山程いるし、俺だってその一人だぜ?本当に知らねえのか?あの娘さん。確か名は、」
その名を聞いた瞬間、俺は振り返ったが、そこにはもう小さくなった後ろ姿しか見えず、まさかな、とまた前を向いた。
――生きている、わけがない。
それでもこの祝儀は返さねばならぬ、と封筒を手にその呉服屋へと向かい、暖簾をくぐると"いらっしゃい"と声が掛かった。が、俺の服装を見てか夫婦の表情が訝しげなものへと変わる。それもそうだろう、警官がいきなり店に入って来たとなれば、何か普通ではないことが起きたときだ。
「突然失礼します。……娘さんは、いるだろうか」
「俺達の娘に何の用だってんだ」
「あ、いや、……俺には貰う権利がない故、頂いたものを返しに――」
「お母さん、髪飾りはどちらが――」
目が合った。一瞬の事なのだろうが、まるでこの世が呼吸を止めたようで「椎名、」と溢れた言葉を掻き消すように椎名は踵を返し奥へと逃げ帰ろうとした。
「ッ待て!!」
無礼な行為ではあるが思わず身を乗り出して追いかけようとしたのを素早く妨げたのは女の方だ。両の腕を広げ、行かせまいと睨み付けてくる瞳に、まるで本物の母親のようだと思い僅かに気圧された。
「……通してくれないか」
「通してどうするって言うんだい。あの子を傷付けるなら、私らは容赦しないよ」
「……」
「私らだってねぇ、分かってんだよ。あの子は自分の事を語らないけど、何か大きなものを抱えてる事くらい」
あんたは、あのこを、きずつけるにんげんかい?
強い眼をしていた。しかしここで折れるわけにもいかない。「……傷付ける事を、してきたかもしれぬ」俺はあの日、あいつの想いを知っておきながら左之とあいつを引き離したのだから。
「だが、傷付けたいとは思ってないない」
「……」
「……通しては、くれませんか。けじめをつけに来たんです」
見据え合って暫くしたら、漸く仕方ないねと俺の前から退き、あっちだよと顎で指す。失礼します、と軽く一礼してはその方向へ進むと、襖の向こうで懐かしい気配がした。そっとその襖に触れ、静かに、椎名、と名を呼んだ。
「……開けても、構わないか」
「……。嫌だと言えば、どうするんです」
「ここで待つ。あんたが、出てくるのを待つ」
何をしに来たのかと、襖の向こうで椎名が尋ねる。祝儀を、返しに。御祝儀くらい素直に受けとればどうです。そういうわけにもいかぬ。どうして。
「……妻とは既に、離縁している」
俺から求めた事は一度もなく、遂に"貴方の中には違う方がいらっしゃる"と離縁を言い渡されたのは数月前の事である。
襖向こうの気配が揺れ、もう一度、開けても良いかと問えば返事はなかった。静かに襖を開けば、あのときより幾らか女らしくなったとはいえど、歴とした椎名がいた。
「……生きて、いたのか」
「…………あなたこそ」
少し泣きそうにも見える笑みに辛抱しきれず、その細くなった身体を掻き抱いた。僅かに困惑したように俺の名を呼ぶ椎名に、ぎゅっと力を籠める。
勤務中に何をしているのかという思いもあったが、このやっと手にいれた愛しい存在を誰が離せるだろうか。
「斎藤さ、」
「好きだ」
今まであれほど言えなかった言葉が、すとんと口からこぼれ落ちた。
「あの日、あの橋の本であんたを抱き締めたときからずっと、あんたが愛しいんだ」
「――――」
「……すまない。俺と、共にいてくれないか」
謝罪の言葉を口にしつつも拘束を解く事が出来ない自覚はあった。
「……あなたは、狡い」
「知っている」
「結婚したと聞き、諦めをつけようと祝儀を贈ったんです。見合いだってするつもりでした」
聞き捨てしたくない言葉が聞こえたが、そこは耐えて椎名の言葉を待った。
「……それを、全て台無しにするんですね」
俺の胸を押して見上げられた椎名の表情は今まで俺が見たことないくらい綺麗な微笑みをしており、目尻にはうっすらと膜が張られているようにも見えた。
「これで離したら、恨みますよ」
嗚呼、やはりあんたは変わらないのか。離すわけがない、と、もう一度この手で椎名の身体を抱き締めた。
あの時回されなかった白い腕が、俺の背に触れる感触が、なによりも愛しい。
いつかすべてを手放すとて
この手だけは離さないでいて
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