桜とともに | ナノ


56 指先で触れる手

一人の芸妓が、右も左も分からなくなったかのように走ってきて、いきなり俺の身体へとぶつかった事に、無礼な奴だと眉を顰めた。しかし、その着物や容貌がほんの一寸前に見たものと一致した事を怪訝に思った。その妓は俺の方へと返り血に濡れた顔をあげたかと思えば、一瞬でそのまま気を失った。――否、失わせた。トン、と首の後ろに手刀を落とすだけの、造作もない事だった。
極端に薄い鬼の血が、香と、無様な人間の血に掻き消された匂いには、嫌悪感しか覚えぬ。

「……おい、忘れ物だ」

男にしては軽すぎた体を抱き上げて幕府の犬共の元へ態々送り届けてやったと言うのに、俺の姿を見た瞬間、土方は女鬼を己の後ろへ隠すかのように追いやった。そして、俺の腕の中の者を眼に入れれば、「紗良?!」と焦りを含んだ声に自然と口の端が上がる。

「ふん、こんな処で刀を抜くつもりか?そんなに警戒せずとも、今宵は女鬼に興味はない。あくまで今宵"は"、だがな」

――"どうして、風間さんは雪村さんを連れていきたいんですか。愛しているからですか、それとも、鬼の為ですか。"
別に、一人の小僧の言うことを真に受けたわけではない。興が乗らんだけだ。それにこんな処で斬り合いなど面倒なことしか生まぬ。
――"ただ、知りたいと思いました。風間さんが悲しそうな顔をする理由を。"
生意気な奴だと思った。この俺が悲しそうだと?思わず舌打ちを漏らしつつも、腕の中の者を土方へと渡す。気を失っているからであろう、「こいつに何を、しやがった」とそいつを抱き抱えたまま俺を睨み付ける土方の声に、明らかな怒りが透けて見える。それを「届けてやったと言うのに、幕府の犬は礼儀も知らんのか」と、軽く鼻で嗤った。

「……斬ったのは、やっぱりこいつなんだな」

少年の顔に付いた男の血を袖で拭いながら土方が溢した言葉に、違和感を覚え首を捻る。

「……?貴様等の処にいるのだから、そいつも人を斬った事くらいあろう?」
「……。いや、ねぇよ。生身を斬ったことも、殺めたこともな」

そこで初めて合点が行った。一瞬向けられた顔が、あれだけ深い絶望に縁取られていたわけだ。この俺が、これ以上、この世を見せたくない反射的に首に手刀を落とす程に。

「……俺は、此奴の飄々とした生意気な態度や表情しか知らぬ。それと、幼子の様な処か」
「幼子、な。まぁそうだろうよ。……それがどうした?」
「……。いや、なんでもない」

あの返り血に濡れた顔に、絶望や恐怖で濡れた瞳。この世の全てに怯えたような表情。嗚呼この男にもそんな表情が出来たのかと。

もう二度と、椎名に人を斬らせぬと、この俺が思うほどの表情だった。


久々に山の中で逢った時も、こうして今、行動を共にしていながらも。守られたくない、と、あの"女鬼"はほざくが、そんなもの俺の知った事ではない。あんな表情よりも悔しげに歪まされた表情の方が見ていて面白い、それだけの理由だ。

「――――っ!」
「……。明朝に発つとは言ったが、未だ夜は明けていない。もう一度寝ておけ」
「……いえ、もう充分寝ました。風間さんも眠った方が良いんじゃないですか」
「軟弱な貴様とこの俺を一緒にするな。山歩きにも慣れていない奴は足手纏いにならぬよう少しでも眠っておくのが最善だと思うが?」
「……」

有無を言えぬようにそう告げれば、不服そうに睨み付けた後、椎名の鬼がもう一度瞳を閉じたのは確か一刻程前だろう。相変わらず可愛いげのない奴だ、と泣き腫れた赤い眼を見ては思う。恐ろしい夢を見ていたなら素直にそう言えば良いものを、言わぬのは自尊心か、己を守りたいからか。俺は知らぬと思っているのだろうな、貴様が先程まで魘されていたことを。敢えて指摘はしないでやるが、こいつでもそういう事があるのかと少なからず驚いた。好いた男の為に、好いてもいない男に身を委ねる事を選んだ女が。……いや、それでも、俺も愚かか。

そんな経緯でさえ、欲しいものが手に入ったと思ったのだから。

やっとの事で寝息が聞こえたのも束の間、再度、椎名の眉間に眉が寄ったのが分かり、静かにその手に己のものを重ねる。こいつが眼が覚ますまでだ。縋りつかれる事がないことくらい知っている。それでも、夢に対してでも良い。一度、この女の泣いた顔が見てみたかった。

■□

「……、……」

目覚めて視線をあげると、風間さんの横顔が眼に入り、未だに火の前に座っていた。私が寝たとき、彼は隣に居なかった気がするのだけれど、単なる私の記憶違いか。何はともあれ一晩中、火の番をしていてくれていた彼に一言、ありがとうございますと声を掛ければ、短い返事が返ってくる。
簡単に身なりを整え、風間さんが火の始末をし外に出ると、眠気も覚めるような冬の空気が身を射した。朝になったときに消えていた私の荷物は、天霧さんが持っていってくれたらしい。「行くぞ」と声を掛けられた時、その天霧さんの姿を見ていない事に気付き尋ねれば、「彼奴には頼んだ用がある」と。

奥へ奥へと進んでいき、日が頭上を回る頃、突然天霧さんが姿を表した。

「こんにちは。風間、椎名殿、風邪などは引かれておりませんか」
「ええ、風間さんが夜も火の番をしていてくれてましたから」
「ふん……、軟弱な貴様に風邪でも引かれ野垂れ死なれても面倒だからな」
「…………風間ももう少し素直になれば宜しいものを」
「黙れ天霧。さっさと用件を言え」

風間さんの言葉に天霧さんは僅かに眼を伏せた後、「人間達の」と口を開いた。

「人間達の動向が怪しいものへと変わっています」
「……そうか。……、里の者達を人間共から見付からぬ場所へ避難させろ。俺と此奴も後から行く」
「承知」

天霧さんが頭を下げ、再び姿を消したのを見届けた後、私は風間さんへと顔を上げる。視線に気付いたのか、それとも偶然か、風間さんも此方を向いた。瞳を合わせた風間さんに「何の話ですか」と問わずとも、視線で分かったのだろう。ただ一言、「来い」とだけ発して、私に背を向け歩き出した。置いていかれないよう、私は少し早歩きになりながらもその背を追う。
見ろ、と、言われたのは、山の木々を抜けた先だった。

「なんですか……、これ」
「戦に決まっているであろう?此処数日で更に激しさを増している。……人間と言う生き物は愚かな事だな」
「……」
「貴様にも、嫁となるのなら鬼の事を教えるべきか」

そう言って、隣に来た私を見下ろす風間さんの双眸を真っ直ぐに見詰め返す。すると、フッとその視線を、戦禍の渦が広がった目の前の光景へと移した。その視線を、私は追う。阿鼻叫喚とは、こう言う光景の中の事を言うのだろうか。新選組の方々は、雪村さんは、離隊した永倉さんは、無事なのか。否、未だ大丈夫な筈だ。そうだと、信じたい。

「……昔、鬼と人は互いに干渉する事無く暮らしていた」

"暮らしていた"、その言葉が過去形になっていることに気づき、風間さんの横顔を窺うように盗み見た。
風間さんの話に依ると、人間は鬼の能力が解るや否や、戦力として利用しようとし始めた。そうして、風間家のように人間と手を組んだ鬼の家もあれば、雪村家の様に、その申し出を断った家もある。ただ、断った鬼の家に待ち受けていたものは、人間の襲来。すなわち、滅びであったと言う。

「……力を求める人や国は、いつの時代も、変わりませんね」
「ほう……?まるで別の時代も見てきたかのような物言いだな」
「……、まさか。……と言うよりも、それなら今風間さんの里の人たちが、逃げなくてはいけないのは私のせいですか」
「何故そう思う」
「風間さんが手を組んでいた薩摩や長州は、新選組と敵対関係にある筈です。私が、新選組へ金輪際手出ししないことを条件にしたから、手を切ることになった。……違いますか?」
「頭が回る女だ。だが、それは違う。例え女鬼が欲しくとも、一人の女と里の者を秤に掛ける馬鹿ではない。人間の愚かさに、そろそろ嫌気が射しただけだ」

こう言う時、ふと風間さんを遠くに感じるんだ。別に普段から近くに感じていると言うわけではないが、どう言えば良いのか、"頭領"の顔をした風間さんは、ひどく遠く、見ている此方が悲しくなる。

「……変なことを、言っても良いですか」
「なんだ」
「重たそうですね、あなたの"荷物"は」
「荷物だと感じたことはない。これが幼き頃から傍らにあった、頭領の宿命だ。俺はこれに誇りを持っている」

そんな事を、この人はまっすぐ口にする。これ程強い人なのか、それとも、これ程強くならなくてはいけなかったのか。

「……。やっぱり私、頭領と結婚したくありません」

何?と、不機嫌さが有り有りと分かるような低い声で、風間さんは私を睨み付けた。「約束を違える気か」と。その視線に、背筋が冷えたが、身体ごと風間さんに向き直り、口を開く。

「結婚するのなら、貴方が良い。"鬼の頭領"ではなく、"風間千景"としての貴方を、好きになりたい」

私の言葉に、風間さんの目が見開かれた。

「?なんですかその顔は。貴方が言ったんですよ。"俺を好きになればいい"、と」
「……貴様がそのような事を言い出すとはな」
「あぁ……。御互い知らないところが沢山ですね」

私は彼を愛していない。それでも、きっといつか、私は彼を好きになるのだろう。今は未だ、あの緋色が胸の中に焼き付いて忘れることはできないけれど。いや、きっとこれから先も、あの緋色は残り続けるのだろう。初恋と言うのは、忘れられないものだと耳にするから。本当はどちらか、その答えは胸の中しか教えてくれない。

行きましょうか、と風間さんの袖を引く。今日中に里に着くために、きっと、里の方々もこの人の帰りを待ちわびているだろうから。けれど、あれだな。この人を知っていく度に、例え"物"としてであっても、結婚相手が私なんかでいいのかと、そんなことを考える。



指先で触れる手


  この手が繋がるときは来るのだろうか


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