55 遅すぎた自覚 風間さんと天霧さんと合流して数日経ったときだった。その頃にはこの人の分かりにくい優しさも理解し始めた。分かるように声を掛けるのは天霧さんだけれど、天霧さんは私に声を掛ける前に、一度ちらりと風間さんを見る。表情には出ていない自信があったのだが、流石に慣れない山越えには身体が疲労を訴えるのは私の方が早かった。
それと、この人はどうも私に人を斬らせたくないらしい。それは新選組の方々にも言えたのだが、襲いかかってくる男達は皆、私が刀を抜いた時には息絶えている。「私、守られるだけの存在でいたくありません」と言ったときもあった。しかし返ってきた反応は「それならば俺より早く反応し、斬れば良かろう?」と、出来るものならな、と告げるような眼で嗤われるものだった。
「……雨か」
ぽつりぽつりと小雨が降り始め、この調子だと強くなるかもしれないと云う見立てから近くで山小屋か洞穴かに身を寄せることになった。どうして分かるんですか?と尋ねれば、天候が怪しい、と。……私にはよく分からない感覚だ。そうして偶然にも山小屋を見つけ、中に人の気配がないことを確認し、風間さんが戸に手を掛けたときだ。
「風間!!前に言ってた椎名の鬼の事だけどよ、新選組の処に居な――――」
声の主を振り替えれば、褐色の肌をした男と眼があった。初めて見る顔だと思い、「椎名は私ですけれど、どうかしましたか」と首を傾げた瞬間、その男性は絶句した。
「何で椎名の鬼が此処に居るんだよ!風間が狙ってたのは雪村の女鬼だろ?!」
「喧しいぞ不知火。その事は後々説明してやる」
「チッ。それはともかく椎名の鬼さんよ、ちっと俺と来てくれねぇか」
「は?」
「何……?おい、誰の許可を得てこいつを何処に連れていこうと言うのだ」
次の言葉を聞いた瞬間、私の身体は頭で考えるより先に反射的に不知火と呼ばれる男性の元へ駆け出していた。
「原田を看取ってやっちゃくれねえか」
その言葉が、言い方が、あまりに私に嫌な予感を芽生えさせる。しかし駆け出した私の腕を、風間さんの腕が捕えた。
「……貴様は俺の物になった筈だが」
「そうですね。けれど、仲間の最期ならば、逢えるのなら、逢いたい」
「ハッ。まだ"仲間"でいるつもりか」
よく見れば、風間さんの表情に揺らぎが見えた。不安なのか、この人が。深紅の瞳を見つめては、はっきりと口にした。
「私は、此処に戻ります。ですから今だけは」
行かせてほしい。
何も言わずに風間さんの腕の力が緩まった事で、今度こそ不知火さんの傍へと駆け寄った。
何処にいるのかと問えば、「眼ェ瞑ってろよ?」と腰を抱かれ、言われた通りに眼をキツく瞑れば風が吹いた。眼を開けば、映るのは――――。
「はら、だ……さん?」
樹の幹に凭れ掛かり、荒い呼吸を繰り返す彼は、赤く染まっていた。どうして。何故。だって、貴方は永倉さんと、なのに――どうしてこんな処に?
「……っ紗良……?」
目の前に膝を着いた私を映した原田さんの双眸が見開かれた。
「っはは……、こんなときまでお前の、夢を見るのか……俺は」
「……ええ。そして私を、――最期の夢として、殺してください」
これは、夢だ。貴方の視界に居るのは、夢だ。ただの偶像だ。「触れたら、消えるのか」と微かに笑った原田さんに、唇を噛んで頷いた。
じわり、と血が滲みすぎて、もう何処を怪我をしているのかすら分からない。そんな私の表情を悟ったのか、もう手遅れだと原田さんが言った。
雨が、一際激しく降り始めた。
この人に、永倉さんと二人で生きてほしかった。こんな処で一人で死なせる為に、あの夜傷つけた訳じゃない。嫌だ、嫌です。ねぇ、死なないで。
「紗良……っ?」
「嫌、だ。貴方が、死んでしまうのは……、嫌です」
私は何をこんなに怯えている。仲間の死か?違う、そんなものじゃない。この人の眼から光が消えることを考えたくない。苦しいでしょう?いたいでしょう?それなのに、どうして貴方は笑うんですか。こんな醜い女を映して、笑えるんですか。
あなたを、失いたくないのに。
『お前にも居るんだろう?』
ふと、梅さんの声が私の頭に浮かんだ。
『紗良なら伝えたか?二度と逢えないかもしれない、男の想いを』
どうして、そんな言葉が今思い起こされるのか。
――好き、?
すき。その二文字が、私の心の中にすとんと収まった。ぱちりとパズルのピースが嵌め込まれた感覚だ。この人を失いたくないのは、この人が、他の女の人で私の穴を埋めるのが嫌だったのは、その理由は総て、
「……っあ、」
好きだった。愛してた。
気付かなかった訳じゃない。きっと心の何処かで気付いてた。ただ、必死で眼を背けて耳を塞いで逃げていただけだ。この気持ちを、知りたくなかったのなら、ずっと知らないままでいれば良かったのに。どうして、今になって気付くんだ。好きです。ねえ、貴方が、本当はずっと。ずっと。好きだったんです。馬鹿なのは、私の方でしょう?
今伝えても、滑稽な事にしかならない。ねぇ梅さん。私、貴方の気持ちが伝えないままに消えてしまうのは悲しいと、言いました。けれど私も伝えられない人間だったみたいです。声に出せば、この人以外を拒絶しそうで。そして、この人を逆に悲しませてしまいそうで。
「原田……さん、月が、――月が、綺麗ですね」
今から何十年も先の世で生まれた言葉の意味を、この時代の人達が知っているわけがない。未来から来た私だから言えた言葉だ。止めどなく頬を粒が濡らす。酷い表情を晒していることだろう。それでも最期は笑いたかったのに、そんな思いと裏腹に、表情は綺麗に笑わせてはくれない。
「……相変わらず、泣き虫だな」
「……貴方の、前だけです」
「そうか、……紗良」
もう喋らないでください、と言ったところで彼は聞かない。私の頬へと伸ばされた手を、もう拒めない。ただその手は、私の頬に触れる前に、ぱたりと地に落ちた。
「――――はらださん?」
瞳に、光が宿っていない。嫌だ、そんなの、受け入れたくない。地に落ちた手を取って、己の頬へと当てた。涙は止めどなく溢れてくる。はらださん、はらださん。何度名前を呼んでも、返ってくる声がない。
「っあ、ぁ……!」
優しく頭に触れる手が、私の心の動きを総て包み込んでくれる温かさが、真っ直ぐ私を見詰めてくれる琥珀の瞳が、心を落ち着かせる声が、たまに見せる子供のような一面が、その何もかもが、好きでした。
あなたのすべてが、好きでした。
息絶えた原田さんの躯に縋りついた。雨が、この人の体温を奪っていくように降り注いだ。そういえば、私からこの人に触れた事があっただろうか。嗚咽混じりの鳴き声を上げるのは、今だけだ。もう、今だけ。
「嫌だ!原田さん、原田さん!!なんで、嫌だ、……っ!さの……っけ、さ……っ!」
私がもっと早くに自分の気持ちに向き合っていれば、もっと別の道があっただろうか。貴方が、こんな冷たい森の中で散っていく最期なんて、避けられただろうか。
嗚咽は雨音に掻き消されていく。呼吸が上手く出来なくて、喉の奥がひきつった。
ひとしきり泣いて、泣き叫んだ後、身を離し、静かに原田さんの瞼を閉じさせる。頬が、雨のせいか既に冷たくなっていた。ぼうっと、まるで眠っているような顏を見つめていると、椎名、と遠慮がちな声が掛かった。ええ、そうですね。
「もう……、埋めてあげなくては、いけませんね」
「……。それは俺がやる。お前はそこで休んでろ」
「いえ、俺もやります。……そうでなければ、きっとこの人の死を受け入れられないから」
掌で頬を撫でれば、ひやりと冷えたソレに、ぞくりと背筋が凍る。"俺"と言ったのは、今の状態で本来の私を晒せられない、云わば自己防衛からだ。
大きめの穴を掘って、愛しかった人の身体へ冷たい土がかけられていく。埋めた後に石を置いて、生えていた花を上に添える。話し掛けたのは私の方だった。どうして、永倉さんといなかったのか、と。
「あー……少し事情があんだよ。それは俺も知らねぇ。……、ンな顔するなって。俺と原田が組んでも強かったんだぜ?」
「組んだ?」
「おう。俺の銃と原田の槍でよ、羅刹をぶっ殺してやったぜ」
「……それなら原田さんは、最期まで"戦友"と刀を振ると言う夢は、叶えられたんですね」
「……まぁな」
そういえば、どうして俺を?と尋ねると、「こいつが剰りにお前の話をしてたからよ」と。あれだけ酷い言葉を投げつけた女を、口に出すことさえしなくとも、この人は恨んでいただろうか。
「……なぁ、椎名の鬼さんよ。今、雨降ってるよな」
「……そうですね」
「月が、何処に見える?」
空を見上げれば、未だに雨粒が私のからだに降り注いでいた。月なんて、何処にも見えない。後ろにいた不知火さんの方を振り返り、私は小さく笑って見せた。
「……見えませんよ。それでも私は、あの方に、"月が綺麗だ"と言ったんです」
行きと同じ様に山小屋へ戻り戸を開けると、中は予想に反して暖かかった。部屋の中心では風間さんが火を焚いており、帰ったのか、と掛けられた言葉に「ただいま、帰りました」と返事を返す。
「……。なんだ、その顔は」
「いえ。……まさか、寝ずに待っていると思わなかったので」
「それなら、俺は貴様が帰ってくるとも思わなかったがな。……不知火はどうした?」
「ああ、少し寄る処があるから、と。先に屋敷には帰っとくと言っていました」
「そうか」と短い返事を聞いてから、私は靴を脱いで風間さんの傍に座る。あたたかい。火に手を翳し、初めて自分の手が震えていた事に気が付いた。まさか雨に気づいて、火を焚いていてくれたのだろうか。
「……何故帰ってきた」
「いけませんか。それとも、やはり雪村さんが良かった?」
「そうは言っていないだろう」
じゃあどういう意味なんだと尋ねたくもなったが、その前に、この人には一度言っておかなければならないのだろう。
「風間さん、よく聞いてください。一度しか言いません」
「……なんだ」
「私が帰ってくるのは、貴方の元にです」
そういう約束でしょう。約束を違えるつもりなんて微塵もない。それくらい決心しての事だ、甘く見るな。
風間さんの双眸が丸められたことに、何処と無く満足感を覚えた。
さようなら、私の好きだった人。
遅すぎる自覚は残酷で
いっそ、気付かなければよかった、と
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