47 結んで離して しゃきん、しゃきん。何処からか小気味の良い音が、ぼんやりと耳を通りすぎていく。
慶応四年一月。新選組の方々と江戸に戻り、品川の釜屋に身を寄せていた。そうして数日、近藤さんの怪我が回復し、組に久し振りに和やかさが戻ってくると、少しの期待があった。――その期待は、虚しく打ち砕かれたわけだが。
(……甲府、城)
今や肝心の将軍自体が、新政府軍に恭順な状況。そんな中近藤さんが持ち帰ってきた言葉は、甲陽鎮撫隊として甲府城へ向かい、其処で薩長を討ち落とせという幕命だった。近藤さんは、自分達がやる気を見せれば、恭順な姿勢を取っている将軍も此方に戻ってきてくれると無邪気に信じているようだが、私には唯の理想にしか思えない。……あぁ、それだから、駄目なのか。山崎さんの最期、私は雪村さんの純粋な心が、素直に羨ましかった。
(任務が成功した暁の甲府城。近藤さん宛の若年寄格という大名の身分。この度の戦で武勲を立てた人は、近藤さんの家来として取り立てられる)
まるで、本当の犬じゃないか。そんな事が思い浮かんで目を伏せる。しゃきん、しゃきん、しゃきんしゃきん。"近藤さんの家来"。その言葉に永倉さんが苛立ちを見せた。幾ら城や身分、権力を貰ったところで……、この組の心は――
「っ、」
いきなり手首を取られ、眼を向けた先には私よりも驚愕や困惑の色を滲ませた原田さんだった。何をそんなに、と訪ねようとした寸で、足元に散らばった髪に眼を落とし、納得した。
「……少し、切ろうと思っただけです」
「これが、"少し"、か」
「……。原田さんこそ、切り落としちゃったじゃないですか」
勿体無い。と、誤魔化すように片手を彼の髪に伸ばす。勿体無い、綺麗な緋色だったのに。
私の、腰程まで伸びていた髪が、それでも肩下程度に留まっているのは目の前の人が見つけてくれたお陰だろう。正直そこまで髪を切るつもりはなかった。あの夜から、ぼうっとしてる時が多いと土方さんから指摘されたばかりだ。いけないな、と苦い笑みを溢せば、原田さんの手が、私から鋏を取り上げた。その鋏を畳へと落としたのを、危ないと指摘しようとした処、暖かいものに包まれたので言葉に詰まる。
「……。そういえば、なんだか、袴じゃないって新鮮ですね」
「見惚れたか」
「見惚れるも何も、こうされてると見えませんよ」
小さく笑うとゆっくりと温もりが離れ、変わらぬ大きな手が私の頭を撫でた。大丈夫かと、問う様な手が不思議と可笑しかった。大丈夫ですと返すように微笑んで彼の胸元を軽く叩く。「髪を片付けて行くので、先に行ってください。……そんな顔しなくても、もう切りませんよ」その言葉と共に。
片付けも終えて広間へと行くべく廊下を歩くと、袴とは違うことを実感する。「お前は雪村の事になると刀を抜くから」と何とも苦い御叱りと共に与えられた洋装の着心地は、男物とは言え、ひどく懐かしいものだった。
「……?」話し声が漏れている。声をたどるとどうやら雪村さんらしかった。少しだけ開いた襖が目に留まりの、覗いて見えたのは山南さんの背中と、恐怖が垣間見える雪村さんの姿。こんな昼間から動いても大丈夫なのかと考えるよりも先に、体が動いた。襖の音に此方へ向けられた切れ長の双眸が、眼鏡の奥で僅かに丸められた。
「紗良君!」
「声も掛けずしてすいません。……何の御話です?」
「……。鬼達は戦闘力も生命力も、人間より遥かに強い……。故にその血には、羅刹の狂気を完全に抑える力が、あるかも知れませんよね?なので、少々雪村君に協力をお願いしていたんです」
「で、ですから、それは……!」
あれ?だけど雪村さんは血を与える事に抵抗など無かった筈だが……。それこそハッピーエンドには血を与えるのが必須なのだと、――――あ。
(山南さんが、好きな相手じゃないから)
勝手な話だと、正直思う。鬼は直ぐに傷も癒えるんでしょう?それなら、いいんじゃないか。組の力に成れる、足手まといに成らずに済む方法が、努力をせずに与えられている事が、私には何より羨ましいというのに。
「何も殺そうと言うのではありませんよ。唯ほんの少しだけ、血を分けてもらえれば、それでいいんです」
そう言葉を続ける山南さんの表情に、かつての面影が見当たらない。誰の為に?それはきっと、
「山南さん。実は俺、此れからの事で少し急ぎの用があって来たんです」
だから少し来てくれませんか?おどけて小さく笑みを溢し肩を竦めれば、山南さんの意識は此方に向いた。「今すぐが嬉しいんです」と念を押せば、解りましたと頷いてくれる。部屋を出る際に、"この事は内密に"、と云った意図を示す為、口許に人差し指を添えると、雪村さんは二、三度頷いた。
雪村の地の水の事を教えるべきか。いや、けれど肝心の"雪村の地"が何処にあるかを、私は知らない。悪戯に狂わせるくらいなら……。
「……それで、用とは?」
「…………あの侭ですと山南さんの立場が悪くなりかねませんでしたから」
山南さんの部屋に行くなり、徐に上着を脱いで袖口を捲る私の意図が掴めないせいか、山南さんは訝しげに眉をひそめた。私の研究を隔てる程の用なのか、今の山南さんが気になっているのは、そんな処だろうか。そうだとしたら、少し寂しかった。
「雪村さんに頼んでも埒が明かないとは、薄々解っていたでしょう。それなのに、何故?」
「……時間がありません。事を成し遂げるには、一早い羅刹隊の完成が必要なのですから」
「本当に、それだけですか」
「っ……。……はは、本当に、貴女には敵いませんね」
フッと見せた瞳は、あの頃と大差ないもので、私はその双眸に、露になった自分の腕を差し向けた。
「私の血で、一度試してください」
「?聞いていたでしょう。私が欲しいのは、鬼の血なのです」
「ええ。ですから――」
私も、鬼のようなのです。
私の言葉に、今度こそ眼鏡の奥の双眸が驚愕に見開かれた。誰にも言わなかった。土方さんですら知らない、私の一番の秘密を、私は彼に見せた。
「勿論、雪村さん程強くはありません。然れど、薄くても鬼の血は鬼の血です。これで効果が見えたのなら、その時にまた考えてください」
「……どうして、」
「大方、新たに羅刹に成った沖田さんの事でしょう?」
藤堂さんが羅刹に成った時、「この苦しみを味わうのは、私だけで良かった」そう言っていましたよね。それなのに今、沖田さんまでもが羅刹となった。この人の焦りの根本は其処にあるのだろう。羅刹は消える永遠ではない。けれど鬼は、力を使っても灰にならない。それならヒントは、鬼の血では?きっと彼はそう考えた。仲間と、いつ朽ちるか解らない自分自身の身体の為。そして、……勝利を信じている、近藤さんの為。
それならば、私は喜んでこの血を差し出そう。山南さんが僅かに戸惑いを見せた気がしたけれど、血を採る容器を下に添え、私の腕に刃を立てた。「……っ」痛みに眉をしかめると、腕を伝う赤い道筋。延びた道はぽたん、ぽたん、と堕ちていく。
「……、傷が治りませんね」
「それ程、濃い血ではありませんから。だから私も、自分が鬼だなんて信じられませんでした」
善意なんかじゃない。これは、そんな綺麗なものではない。役立たずに成りたくない、そんな自己防衛の現れだ。その為に、今も昔も此れからも、己の身体を差し出す事以外の方法を、私は知らない。人を斬った時も、何があっても表面では笑っていたあの頃も、血を差し出した今も。それ以外の恩の返し方を、私は知らない。
「……当ててみて良いですか」
「何をでしょう」
「山南さんが、雪村さんに血を求めたり、私の血を採れる理由をです」
「……ええ」
「優先順位が、違うから」
私の言葉に、山南さんにしては珍しく、悪戯がバレてしまった子供の様な笑みを見せた。答えなど、「やはり、敵いませんね」。漏らされた此の一言で十分足りる。
考えてみなくても解ること。幾ら近くに居たところで、私や雪村さんはたかだか五年も満たない付き合いだ。そんな私たちと、十数年共にしてきた仲間。傷つけるとすれば、どちらかなど火を見るよりも明らかだろう。
ただその瞳が、愛される事が当たり前の少女には、怖かっただけ。
血が止まる前に、山南さんが私の傷口に布を当てた。採った血を保存し、止血を終えると静かに口を開いた。
「君が鬼だと、土方君は?」
「知りませんよ。この組の人は誰も知りません。知っているのは、私と、鬼の方々。そして、山南さんだけです」
何か言い掛けた山南さんの言葉を遮る様、先程雪村さんにしたのと同じ動作で己の唇に指を当てる。
「だから、この部屋で話した事も、した事も、誰にも内緒ですよ」
「……。えぇ、二人だけの、秘密ですね」
その言葉に頷き、上着を羽織ってから襖に手をかける。そう言えば、と山南さんに口を開いた。
「仮に効果があっても、雪村さんに頼まない方がいいかもしれません。結果として貴方が悪者に成るのは、私が悲しい。……あの人は、守られていますから」
「雪村君なら、効果が確定すれば協力してくれると思いませんか?」
「思いませんね。"私"から見て、彼女は子供じゃない。もうあの子は、"女"ですよ」
好いた男の為なら血をあげることも惜しくない。
「女は、好きな男以外の為に傷つく事は嫌うみたいですから」
「……では、どうして貴女は」
とん、と部屋の外に足を踏み出して、山南さんの方を振り向き、いつもの仮面をつけて"私"は笑う。
「忘れていたりしますか?"俺"は男ですから、仲間の為なら幾らでも」
本当は、自分を守る為なのだけれど。そんな醜い裏側は、不格好な仮面の裏に隠してしまえば良い。どうせ私は、彼女の様な綺麗な女の子には、もう、成れないのだから。
広間に入ると、皆見慣れない姿をしていた。けれどそれは向こうも同じなのだろう。私の姿を見つけると心配そうな顔をして此方を見た雪村さんを安心させるべく、頭を撫でた。もう一度視線を先に遣れば、……あぁ、勿体無い方々がこんなにも。私の視線を感じたのだろうか、土方さんが此方を見て、それはもう盛大に渋い表情を滲ませた。
「……おい紗良。手前また、」
「うわ。何で男って揃いも揃ってそう簡単に髪の毛を切り落とすんです?折角綺麗な髪だったのに」
「てめえに言われたかねえよ!!大体髪は切んなって言ったろーが!」
「いや、だけど今回は上手く言ったでしょう。ほら見てくださいよ、この無造作な感じ。長いのもあれば短いのもありますよ。色男に見えません?」
「ただ雑なだけだろうが」
そのやり取りに、ふふっと雪村さんの控えめな笑みが零れた。二人して視線を向ければ慌てた様子で「あ、えっと、なんだか、懐かしくて……! 」と大きく頭を下げた。これには土方さんも溜め息を吐くしかないらしく、私は私で「流石の副長さんも可愛い子には弱いですねぇ」と揶揄ってみせる。すると頭を小突かれた。
「……斎藤、長さを変えずにある程度整えてやっちゃくれねえか」
「御意」
「気に入っているのに」
「副長命令だからな。諦めろ」
ちゃんと故意に切ったようにはしてやる。と、何処からそんな自信が出るんだと思ってしまう言葉を一先ず信じようか。それでも何か悔しかったので、「釦、掛け違えてますよ」と指摘を入れれば、私よりも先に誰かにも言われていたのだろうか「知っている」とぶっきらぼうな返事だけが帰ってきた。
「……何かあったのか」
二人だけに聞こえる様に、斎藤さんの声が落ちる。その言葉にわざと、誤魔化すべく笑みを繕った。
「なにがです?」
「あんたは近頃一人で不格好に成らぬように切れていただろう。それがその有り様だ。……気が逸れていたか、何らかの理由があった。違うか」
「……」
「無言は肯定と受けとるぞ」
井上さんや山崎さんの名前が斎藤さんから出なかったのは、彼も分かっているからだろうか。この人は案外、鋭いところがある。
「……、土方さーん!斎藤さんが不埒な言葉言ってきますよー!」
「な……!そんな言葉何も言っていないだろう!」
呆れて本日二度目の溜め息をつく土方さんにも、私は笑う。そうしてそんな自分を、何度も嗤う。
「土方さん」
「なんだ」
「髪、また伸ばしてくださいね。折角綺麗な髪だったのに」
御世辞で無い事は分かっているのだろう。「お前もな」と言うと同時、くしゃりと髪を撫でられる。この人も案外、意外と撫でるのが好きなのかもしれないな。
その夜、山南さんの目論みは泡となって消えることに成る。実際に泡に成ったのかは知らないが、少なくとも、表面上は消えていった。
羅刹隊が共に甲府へは行かず、此処に留まることが決まった。それが理由だった。
その土方さんの声を耳に挟むや否や、私はふらりと庭に出た。あの人なら、きっと、いると、何の根拠もないがそう思ったんだ。
「……あれ、紗良じゃん」
「とうど……、兄上」
「聞いたのか?」曖昧な笑みを浮かべ此方を見る双眸に、小さく確かに頷くと、「そっか」と匂いが近くになった。言わなくてはならない事がある。此れからの為に、私の出来る唯一の事の為に。その言葉を聞いた瞬間、彼の瞳は何色に染まるのだろう。
「……お前は、土方さん達に付いて行けよな」
「え」
「俺は、大丈夫だから」
月明かりに照らされた彼の表情に眼を見張る。嗚呼、いつからそんな表情をするようになったんですか。いつから、ずっと、そうやって。
「お前は羅刹じゃねえし、俺達に付いて来たら色々不便もあるだろ?それに、」
お前だって、と零れた言葉は、そのまま風に転がされて行く。私が言葉を紡ぎやすいようにしてくれているのだろうか。お前だって向こうに行きたいだろ?と、言いたい事は分かってしまうのは、心の中にそう言った考えが在ったから。告げる前に告げられた。それだけの事だ。
『藤堂さんを、独りにさせません』
うそつき。
『君の優しさは、残酷だよ』
ええ。まったく。本当に。
「……私を、恨みますか」
調子の良い嘘しか吐けなかった、私を。独りにさせないと言いながら、手を離した、私を。その場限りの優しさしか持てない、私を。あれを優しさと、呼んでも良いのか解らないんだ。嗚呼きっと、あれは偽善と呼ぶのが一番良い。
「恨まねえよ」
「だけど、私は貴方に。貴方は、残酷な優しさだと、中途半端だと、罵りますか。偽善者だと、軽蔑しますか。だって私は、貴方をひとりにしてしまう」
「紗良、落ち着け。俺は、もう、大丈夫だから」
私の背を一定のリズムで、宥めるようにぽんぽんと叩く手付きは、知っている様で知らない人のようだった。いつもその手を出すのは、私の方だった筈なのに。ごめんなさい、ごめんなさい。と幾度も謝罪の言葉が零れ出す。大丈夫だからと、彼は言う。
「俺は独りじゃねえよ。山南さんも一緒だしな。試衛館に入った時さ、近藤さんと土方さんと総司は、もう何年も三人一緒にいてさ、やっぱり家族みてえで何処か隔たりみたいなのを感じたんだよな。あの人も同じ感じで、何度も話を聞いてもらったんだ」
山南さんの話をする彼の眼が、ひどく優しい色に満ちていた。「だから紗良は心配しなくて良い」という言葉に、私は素直に頷いた。すると彼は、にいっと白い歯を見せて笑う。
「ははっ!やっぱり見慣れねえなぁ、その格好」
「……、兄上も同じですよ。あんなに長かった髪も、切り落として」
すっきりしただろ?とおどけたように首を傾げる藤堂さんに、どうでしょうねと笑みを洩らす。月が綺麗な夜だった。吐いた息が、冷たい空に融けていく。赤くなった鼻頭を見て、寒そうですねと声を掛けようとした寸前。
「……お前は、好きだった?」
「えぇ。とても好きでしたよ」
それなら、いいや。細められた瑠璃色は、私の初めて見る表情だった。
風貌や雰囲気とは異なる、寂しげな瑠璃色を放っておけなかった。私が名前を呼んだ時、振り返り靡いた髪に、綻んだ表情に、何度も口許が緩んだ。
本当に貴方が兄ならばと、何度思った事か。
「……これで最後って訳じゃねぇよ」
「当たり前です。……それまで、生き延びてください」
「お前もな。あんまり土方さんで遊んでやるなよ」
「それは、約束できませんね」
御互いに笑みを溢しながら笑い合う。この時が過ぎなければ良いのに。今日のこの日が終わりを告げれば、明日からはまた、戦乱の世に呑まれていく。穏やかな日など、きっと、もう来ない。
「……あの日、紗良が言ってくれた言葉、凄ぇ嬉しかった」
「私も、存在を認めてくれて、ありがとうございます」
また会う日まで、お元気で。今の状況に、"絶対"なんて言葉は何処にもない。彼らは数日後には彼らも甲府に来て合流するのかもしれないし、しないのかもしれない。土方さんの続く言葉を聞かずに、寒い庭に出てきたのだから。唯私にでも分かるのは、その空白の数日で事がどう運ぶのかは解らないという事だ。たった半日別れていただけで、あの優しい人達が、二度と会えない人となったように。
先の事が何も解らない以上、私は唯、彼らの無事を祈るしかない。交わされた手に、神様なんて信じていないくせに、またこの笑顔が見えることを祈る。
結んで離して
再会を無邪気に信じられる子に成りたかった、
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