46 海の彼方へ消えた人 邪魔をするな、と、言うかの様な視線が背後にいる風間さんから突き刺さる。それに気づかぬフリをして、目の前の、手の内の物が砕け散り幾分か冷静さを取り戻した様に見える土方さんを真っ直ぐに見据えた。
「何故、飲もうとするんですか」
「……お前は、元々"あれ"を飲むも飲まねぇも、手前次第って考えてたと思ったんだがな」
「そうですね。その通りです。だけど、……飲んでほしくない、と、可愛い女の子に頼まれましたから?」
落ち着いてくださいと言う代わりに、小さく肩を竦めて苦笑を溢す。大体沖田さんも土方さんも、どうして解らないんだ。それとも、解らないフリをしているのか。自分達が飲んで、誰が一番悲しむかと言う事を。それが、自分達の一番大切にしたい人だと言う事を。
少し息を吐いたも束の間、鬼が、言葉を吐いた。
「そいつの愚かな真似を止めたのは賢明だったが、――邪魔をするな、椎名の鬼よ」
「……鬼……?」
その言葉に、ぴくりと土方さんの片眉が上がる。……余計な事を、口に出さないでくれないか。今すぐにでも風間さんの口を手で覆ってしまいたい。
――その時、それを実行していれば良かったのかもしれない。
――否、未来はどう足掻いても変えられない事を、私は未だ思いしっていなかったんだ。
「フン……、そんな事はどうでも良い。どうする?そこに伏せた犬の姿を見て、そのまま帰るのか」
「っ手前……!」
「嗚呼しかし、犬には犬死が似合いか」
「風間さ、ッ?!」
速い。
私の隣を駆け抜けた土方さんの動作は、見失うほどに速かった。変若水?いや、あれは飲む前に防げた筈だ。それならば、何故?
――信念?
人間、守るべき物があるだけでこんなにも違うのだろうか。
何が起こっているのか、私の目では追えない程速い太刀捌きだった。どう止めればいいのかも解らない上に、きっと私の声なぞ聞こえもしないのだろう。
「ぐっ……!」
土方さんの刀の切っ先が、僅かに風間さんの頬を掠めた。「貴様ごときが……ッ!!」極々小さな傷ではあったものの、人に傷つけられた事に対する屈辱は計り知れないものらしい。
変若水を飲んでいない、ただの人間。
その人間が、何故か鬼とほぼ対等に斬り合っている。不自然なことではあったのに、私の頭はそこまで理解が回らなかったんだ。
二人の男が声を上げ、白刃が赤い血飛沫を求め振り下ろされた、と思った。
「――――!」
鈍い音。いつの間にか間に入り、風間さんを守った天霧さんに、土方さんを守った、山崎さん。
「山……崎……、?」
「っな、何しているんですか、副長……?あなたは、頭で…… 俺達、は、手足の……筈でしょう……。手足なら、無くなっても替えが、効きます……。ですが…頭がなくなってしまっては、」
何もかも、お仕舞いです。
どさり。と、何が起こったのかわからない。どうして此処に山崎さんが?どうして、彼が?
嗚呼、嗚呼、もっと早くに決断をしていればよかったんだ。そうすれば殺さずとも済んだ。そうだよ。この人は、傷つく必要すらなかったのに。この後の事がフィルムのように流れ始めた。もう遅い。この人を見殺しにするんだ、私は。
バッと視線を風間さんの方へ向けたとき瞬間、天霧さんも風間さんも消えた。消える一瞬、目が合った気がした。あくまでも"気がした"だけ。
あれから井上さんの遺体を地に埋めたと聞いたが、あまり覚えていない。大阪から出向した船に揺られながら、随分昔に貰った刀に触れ、俯いて唇を噛み締めた。微かに鉄の味がする。
大阪城に到着した時には、既に上様――将軍徳川慶喜公は江戸へ発っていた。尻尾巻いて逃げただの、上様を責めるなだの、残るだの、かといって武器も何もないだの、色んな言葉を耳に通している内に無意識に呟いてしまった言葉を拾われなかったのは幸運だった。
(見捨てられたんだ、つまりは)
江戸へ向かう船に共に乗り込んだ私は、山崎さんの治療に励む雪村さんを微力ながらも手伝っていた。浅い呼吸を繰り返す様子から、容態は深刻なものだと容易に窺えた。そしてそれは直接治療に当たっている雪村さんと、当の本人が一番良く分かっているのだろう。そして信じたくない未来が現実となるのは、私が一番理解していた。だからこそなのだろうか、何をすればいいのか解らない。分からないままに、山崎さんの手に触れた。未だ、温かい。
「椎名……君。ゆ、雪村君」
不意に名前を呼ばれ、返事を返す。なんでしょうかと尋ねれば、途切れそうになりながらも山崎さんが言葉を紡ぐ。
「組を……皆を、宜しく……頼む」
それは、別れの言葉に似通る言葉で、言葉を失った私とは逆に、「何を言ってるんですか」と無理なのは見て分かる、雪村さんの笑顔があった。この時ばかりは、彼女が居てくれて良かったと、心の底から思える。だってほら、その笑顔に応えるように、山崎さんも笑みを浮かべる。
淡い期待ほど、裏切られるのは直ぐらしい。
雪村さんが薬の用意をするのに後ろの棚の方へ行く。
「君の泣き顔は、……最期まで見られなかった」
「は……は、最期なんて嫌な言葉を使いますね」
「……、それでも……、泣いている姿を、見たのは……俺が初めてでは、ないだろうか」
この世界に来たすぐの、雪の日を思い出した。忘れてくれてなかったんですね。そう笑った私に、山崎さんは笑みを返す。
「嬉……った、からな」
「それは、意地が悪い」
「――く、ん」
「?はい」
「――……」
「山崎さん……?」
もう言葉を発するのも辛いのだろう。小さく口を動かしているのがわかっても、肝心の言葉が解らない。触れていた手が、繋がれる。その手を握り返せば綺麗な菫色の双眸が細まった。嫌だ。そんな風に笑わないで。
手の力がふっと抜けたとき、あれが最期の微笑みだったことを痛感した。最期。最期、
「……ゆ、きむら、さん」
「どうしたの?」
きっと振り向いたのだろう。ガシャンと容器が床に堕ちた音が耳に入る。山崎さん!と駆け寄った雪村さんの大きな焦げ茶色の双眸から大粒の涙が零れ落ちる。泣きじゃくる雪村さんの背撫でてから、報告へ足を運んだ。何かしていないと、足許から崩れ落ちそうだった。
甲板に集まった方々は、重い口を閉じていた。唯一叫んだ永倉さんの言葉の、"犬死に"という言葉が、堪らなく悔しかった。納得してしまいそうになった事が、悲しかった。教科書でしか見たこともない将軍が、これ程まで憎たらしいと思うとは。
海に沈む白い布で包まれた彼を、何処か現実味もなくぼうっと眺める。
この組が、此処の人々が、どのような道を進む事になるのか。雪村さんを見ていても幹部の方々には分け隔てなく優しいので、正直言って誰と結ばれるのか検討もつかない。確かに誰かに特別な感情を抱いた事はないが、そこまで自分が鈍いとも思っていない。だからきっと、彼女は未だ誰にも恋をしていない。だとすれば、どのように進むのだろう。あの少女は、その場合を私に教えてはくれなかった。
「紗良ちゃん」
振り返った先には、翡翠の目をした男が、悲しげに笑った様に見えた。嗚呼、冷えるから中に入れと、山崎さんがあれ程言っていたでしょう?あれは、いつの日だった事か。
□■□
彼の沈んでいった海を見つめる彼女の眼が、今にも海に抱き止められそうに見えて思わず名前を呼んだ。呼んだ後に、部屋の中以外で「紗良ちゃん」と呼んでしまった事に気が付いた。しかし彼女の方は気付く余裕すらないのか、ただ、"やりきれない"と言うような、涙すら出ないとも捉えられる微笑みを僕に向けるから、堪えきれずに彼女の身体を抱き締めた。その身体は、十八、九の男と偽るには剰りにも華奢で、小さかった。
「……沖田さん?」
「君って、本当意地っ張りだよね」
「何の事でしょう。意地っ張りは、貴方の方ですよね」
優しく僕の背に回された手と、気遣うような声色に、全てが察せられそうだった。
(嗚呼、もしかして)
「泣きたいときは、泣いても良いんですよ」
「……君にだって同じ事が言えるよ。それに、僕は彼の口煩さは嫌いだったからね」
「ほら、意地っ張り。それだけ気心許せたってことですよね?」
(彼女の中で、僕は、既に、)
「俺は大丈夫ですよ。……仲間を亡くして辛いのは同じでも、私や雪村さんと、貴方達では絆の深さが違います」
だから、泣いてください。と、促すように彼女の手が僕の背を撫でる。
(彼女の中で、いつから僕は"守るべき存在"になってしまったんだろう)
あの日から?僕が、彼女の腕の中で泣いてしまった時から?
彼女が僕の腕の中で泣かないと、確信に近いものが病に巣くわれた胸の中で芽生える。熱くなる目頭は、彼を失った事と、きっと、
「沖田さん」
彼女の声は、京にいた頃に、たまに聞いた、泣くのを我慢している子供を宥める時の声だった。
「犬死にじゃ、ありませんよね」
その一言だけは、縋る様な声だったから、うん、と、一言頷いた。背に回された手が強まった事に、彼女の不器用さが垣間見えた。
良いよ、今だけは不器用な君の代わりに泣いてあげる。君の代わりに泣くなんて、素直なあの子一人で充分だと思っていたのに。
僕だって、君を守りたかったんだ。
海の彼方へ消えた人
温もりは確かに此の手の内にあったと言うのに
[47/62]
prev next
back