45 ピアノ線に刃を当てる 寒空を、禍々しい分厚い雲が覆っている。近藤さんも沖田さんも居ない屯所は、ただ、穴が開いたように過ごした――と、したのなら、まだマシだったとも言えるのかもしれない。
本当はそんな寂しさを感じる間もなく、戦いの闇に呑まれていったのだった。
慶応四年一月、旧幕府軍と薩長軍の間で戦いの火蓋が切られた。平成の世で習う名前で言えば、"鳥羽伏見の戦い"だ。旧幕府軍の数は薩長軍の約三倍と、数の上では優勢の様にも見えたが、薩英同盟などで最新兵器を装備した薩長軍を前にして、旧幕府軍は完全に圧倒されていた。
今日も、大砲が吠え、沢山の命が散っていく。死体を見るのにも、ほんの少し慣れてきたのかもしれない。そんな自分も嫌だったけれど、蚊帳の外で居ながら、まるで被害者のような口振りになる事がもっと嫌だった。
「――――上手く、いかない」
ぽつりと漏れた声に、自虐的に笑う。私はまだ、何か組の為に出来るとでも思っているのだろうか。歴史は変えられない。あの夜に、痛い程よく分かったくせに。
「?紗良君、どうしたの?」
「……。いいえ、なにも」
「……大丈夫だよ。淀城の人達だって、援軍を……」
昨夜、陣を撤退するをやむを得なくなった新選組一同は、淀城に援軍を頼むこととなった。そこで伝達ならと手を挙げたのは雪村さん。「私も行こう」と、名乗り出たのは井上さん。
――嫌な予感が、するんだ。
この人を、行かせてはいけないと、本能が警告を鳴らした。だから珍しく、雪村さんよりは刀を使えるからと言う理由で、井上さんの代わりに私が行こうとしたのだけれど。
(まさか、三人で行く羽目になるなんて)
しかし戦いの本陣でいるより足手まといになる事も無いかと思っていたのだけれど。
「あぁ。何としても出してもらわねば。歳さんの為にも……むっ……!?」
「どうして、門が閉まってるんでしょうか……?」
走って走って走り続け、やっと辿り着いた城門は、まるで私たちを招かざる客として拒んでいる様だった。ぞくりと背筋が震える私の前で、井上さんが大きく息を吸い込み、いつもの穏やかな声色とは違う、大きく力強い声を発する。
「我々は幕命を受けて参った!お上に弓引く逆賊を討つ為、力をお貸し願いたい!」
そんな井上さんの言葉とは裏腹に、兵士は銃を構えた。その、銃口は、
「――っ!!」
頭で判断するよりも先に、井上さんと雪村さんの腕を引いた瞬間に銃弾が発砲される。逃げなければ、此処から、早く。
何故かは分からないけれど、あの人達はもう、味方じゃない。
「っ!?い、井上さん、これは!?」
「戻ろう……!此処は危険だ!」
「で、でも、援軍を……!」
「あの人達は既に味方ではないんですよ!」
何故此の状況で解らないのだと言う苛立ちを若干含み荒げてしまった声に一言取って付けたような謝罪を溢す。とにかく逃げるのが先決だと思い立って、森を駆け抜けていく。見つかったら、其処に在るのは唯の死だ。
(――、死、)
皮肉なものだな、と、思う。最初あれだけ死を望んだ人間が、銃弾から逃れようとがむしゃらに足を動かしているなんて。"目的"の為だけではない。きっと、私の心に根付いているのは、紛れもない恐怖心だ。死への、恐怖。
此の森を抜ければ合流場所だ、そう井上さんが言った瞬間見えた人影。そして、森の中に響く、乾いた銃声。井上さんの呻いた声に、雪村さんの悲鳴が重なった。
誰が撃った?この、目の前の人達が?だけど、此の方々の服装は、
「幕府側、では?」呟かれた疑問は、男共の下卑た笑いに真実を察する。
「おい、あの隊服は新選組じゃねぇか!」
「こいつ等の首を手土産にすりゃあ、薩長も喜んで迎えてくれるぜ!」
「?!貴様等……!」
雪村さんと、正面から銃弾を受けた井上さんを連れ、此の森を抜けるにはどうすればいいのか。必死で考えを巡らしつつも、抑えきれない殺意が沸く。
どの世界でも、同じ。可愛いものは自分の身だけ。それは私も同じだ。しかし、それでも、だからって。
沸点と言うよりも、達したのは零点なのかもしれない。冷静になれば、辿り着く結論はたった一つだ。
「――雪村さん。井上さんを連れ、逃げてください」
「っ!紗良君……?!」
「解っているでしょう?雪村さんと俺、足止めになるのはどちらか。井上さんか俺、組に必要なのは、どちらか」
「だからって、そんなの無理だよ!!」
「"無理"ではありません。するんです」そう、出来る限り優しく微笑んだ。そりゃあ確かに、"盾"と言う名目なら、雪村さんの方が適任なのだけれど、そんな事を提案できる程の人間じゃない。思っても口に出せないなんて、なんて狡い人間だろう。しかし私の言葉と反対に、井上さんが、静かに刀を抜いた。
「……逃げなさい。椎名君、雪村君」
「?!井上さ、」
「私はね……、君達の事を、自分の……、子供の様に思っていた。なのに、――子供を見捨てる親が在るものか」
今までも、そしてきっと此れから先も、私は此れ以上に優しい微笑みを見る事はないだろう。
私達を背にやり、刀を構えた背中が、何時もよりも大きく見えたんだ。
「早く行きなさい!!」
「っ!」
「……歳さんに、伝えてくれ。力不足で申し訳ない。共に在れなかったことを、許して欲しい……。――最後の夢を見させてくれて、感謝してもし切れない、とね」
"いやだ"
そう叫ぶ前に、井上さんは雄叫びを挙げながら男共へと駆け出し接近する。逃げろと、言った。この優しい人を捨て、逃げろと言うのか。逃げなければいけないし、それが最善だとも分かってる。
動けないのは、隣の雪村さんも同じらしい。
圧倒的な気迫に、それを受けた男はおろか私の足も立ち竦む。上手く動かない、嗚呼、早く動かないと、いけないのに。雪村さん、と呼びたかった声は、井上さんの血で消えた。
一人を追い詰めた途端に、残りの二人の刃が、井上さんの身体を貫いた。
「いやあああぁぁああ!!!!」
雪村さんが叫ばなければ、叫んでいたのは私だっただろう。
「っ!雪村さん!早く!!」
「嫌だよ、だって、井上さんが……!」
「井上さんの勇姿を無駄にするんですか!」
私がどれだけ強く腕を引こうが、雪村さんの足が動くことはない。此れ程まで強い力が、彼女の内の何処にあったか。嗚呼羨ましいことよ。此れが純血の鬼の力と言うのなら、もしも私が貴女なら、立派な"防壁"に成れるのに。
致命傷を負わされた井上さんの眼に、私と雪村さんが映る。苦しそうに息を乱しながらも、必死に逃げるようにと声を出す。
――早く逃げなさい、と、言い終わる前に、井上さんが、散った。
「――――っ!」
何が可笑しいのか、私達を嘲笑うかの様な笑い声を上げる男共を殺したくて殺したくて堪らない。しかしそれでも三対一。雪村さんを守りながら、戦える自信もない。
(――――守る?)
怪我も直ぐに治る鬼が、守られる必要なんかあるのだろうか。
どろりとした感情を払拭すべくもう一度彼女の腕を引いた。
「っいい加減に、」
「離して紗良君!!」
「此処で私達までが死んだら、……ッ井上さんに犬死にをさせるつもりですか?!」
「だって、……旗色が悪いからと言って寝返るなんて……っ!貴方達は、貴方達はそれでも本当に武士なんですか?!」
「雪村さん!!」
怒らせるな。お願いだから、下手に刺激を加えないでくれ。斬りかかってきたときに、防壁に成る気すらないのなら、素直に逃げてくれないか。
「本当に武士だぁ?当たり前だろお?」
「違う!私は、今まで真の武士を見てきました!貴方達は、武士の風上にも置けない!!」
その言葉は、男共の怒りを面白い程に掻き立てた。――嗚呼、もう、何もかもが終わった。
「っあはははは!!」
雪村さんから手を離し、馬鹿みたいに笑って見せれば、彼女だけでなく目の前の男共は一瞬戸惑いの表情を見せた。しかしそれも直ぐに怒りへと変わる。「何笑ってんだよ!死にてえのか!!」なんて、案外此の人達は坊やみたいだ。そんな在り来たりな、脅し文句。そんな男共に、嗤ってあげた。存在の総てを嘲る様に、嗤笑した。
どうせ斬り合いなら、いくらでも神経を逆撫でしてやればいい。怒りに湧いた者程、斬り易いものはないと、言っていたのは土方さんだったか。
「"武士の風上"?雪村さんって優しいんですね。こんな下卑た男共、男の風上にもおけません。女性の方々にも好かれないでしょう?あぁ勿論遊郭は除いてくださいね?彼処は夢や色を売る処ですから。それにしても、まぁ。己の信念も糞も無い。我が身可愛さで忠誠を捨て彼方へパタパタ此方へパタパタ尻尾を振って、嗚呼なんて滑稽で無様な事。犬でも助けられた恩を忘れないというのに、家畜にも劣る」
最後は表情など消え失せ、ただ殺気だけを向けても、怒りの頂点に達した男共へは剰り効果の無いらしい。
残念だと、正直思う。結局存在理由の無い侭に、私は雪村さんと此処で死ぬのか。ゲームで言う、"bad end"。
最後の抵抗として、腕一本でも持っていけたらいいなと、剰り望みもないことを考える。
「さーん、にーぃ、」
いーち、と。此れが零に成ったとき、命は終わりを告げる。親は子を見棄てないと言うが、果たして子は親を見棄てないのか。もう一度、両親に逢いたかった気がしなくもない。
「ぜ、」
最後の数字をカウントすることは、遂に無かった。私達に斬りかかろうとしていた男共は、無様な断末魔を上げたかと思えば、躯として地に転がっていたから。そしてその躯を、汚物を見る様に見下ろしていた鬼がいた。
「ふん……下衆が」
おや。と、ただそれだけのリアクションで返す私とは正反対に、雪村さんは小刀を身構えた。それを一瞥すると、風間さんが此方へ近寄ってくる足を止めた。
「……よせ。俺は淀藩の動向を見に来ただけだ」
「……淀藩」
「その様子だと、奴等が寝返ったのは承知している様だな」
「ええ。……それは、もう」
ひとつ首を縦に動かせば、「そうか」と風間さんの声。言わなければいけない事があるけれど、この状況で言えるものではない。
雪村さんが、小刀を鞘へと仕舞ったときだ。
「ひ、土方さん!!」
風間さんの向こうに、土方さんが現れた。おおよそ、合流場所に来ない事を不審に思い迎えに来たのだろう。もう少し早ければ、……いや、今更それを考えたところで、仕方がない。仕方がないことを、私は今まで何十何百と考えてきた事だろうか。
地に伏せ、既に息絶えた井上さんの姿に、紫紺の瞳が見開かれた。源さん、と、名を呼ぶ声は僅かに震えており、風間さんへと向けられた声に籠るのは、
「…………お前か、斬ったのは」
「――――!」
私でも、ゾッとする程に怒りに冷えきった声だった。違うと言おうとする雪村さんも、上手く声がでないのだろう。そもそも、そんな言葉も今の土方さんには届かない。その上あろう事か、風間さんがにやりと口角を上げた。
「だったらどうする?」
「ッてめえ……!」
「クク……やれやれ、また無駄死にが増えるのか。何故そう死に急ぐ?」
「……無駄死にって、言いやがったか……?今、無駄死にと、ほざきやがったかァ!!!!」
素早く抜刀し、土方さんの刀の切っ先が宙を斬った刹那、二つの刀が交わる鋭い音が響く。土方さんが怒りで己を見失っているのが此処から見ているだけで解る。しかし、まずいのではないか。
土方さんが雄叫びを上げ、迷う事なく風間さんへ刀を降り下ろす。それを受け止め、押し返す。そこで、風間さんがまた、くつくつと喉をならし、嗤った。
「此の姿を人目に晒すとは思わなかったな……。此の本物の鬼の姿をなァ!!」
黄金色の髪が白に染まり、深紅の瞳は琥珀へ。頭部で存在を主張するのは、四本の、――角。羅刹と似ているようで、全く違う。気高く、そして美しく。性格はともかく、随分前から綺麗な容姿だとは思っていた。それが、今は群を抜いている。
「――雪村さん」目の前の光景から目を離せないままに声を掛ければ、雪村さんが私を映した。
「変若水を、土方さんに飲んでほしいですか」
「?!紗良君だって、知ってるでしょ?あんなに苦しむ姿、見たくないよ……!」
「ええ。そうですね。俺もです」
昔の私なら、放っていたことだろう。高みの見物に徹していた事だろう。この人のお人好しが、移ったのかもしれない。
「ッつ……!」
「どうした?お前の感じていた悔しさは、その程度のものだったのか!」
「ち……っ!くそったれがぁッ……!」
鬼の力か、土方さんの刃を受け止めると、遂に風間さんはそれを弾き飛ばした。いけない、と頭の中で警報が鳴る。雪村さんの声に耳を貸さず、足を踏み出した。だって、あれは、あの赤い液体は。
「……変若水か。何処までも愚かな真似を……」
「"愚か"……?それがどうしたってんだ……!俺達は、元から愚か者たちの集団だ。馬鹿げた夢を見て、それだけをひたすら追いかけて此処まで来た。今は、まだ坂道の途中なんだ……。こんな所で、ぶっ倒れて、転げ落ちちまうわけには行かねえんだよ……ッ!!」
瓶を煽ろうと、口許に近づけた瓶は、ほんの僅かの差で触れた私の手によって地面に砕け散った。男の戦いに水を差す?――そんなもの、どうだっていい。
「……何を、しているんですか」
ピアノ線に刃を当てる
マリオネットも自分の脚で動きたかった
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